(ルシの声)
おい、人間よ。
何をそんなに浮かれている。
何をそんなに悲しんでいる。
この世の喜びも悲しみも、風のように過ぎ去っていく。
だから私は問う。
「あなたは、心の灯火を持っているか。」
その灯火なくして、人生という夜道を歩むことはできない。
本文
ダンマパダ第146偈には、このような言葉があります。
「何の笑いがあろうか、何の喜びがあろうか。世間は常に燃え立っている。そして暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか。」
釈尊は、人間の置かれている現実を厳しく見つめています。
私たちは日々、様々な出来事に一喜一憂しています。
成功しては喜び、
失敗しては落ち込み、
誉められては嬉しくなり、
批判されれば心を痛めます。
しかし、その多くは移ろいゆくものです。
名誉も。
財産も。
地位も。
肉体も。
やがては過ぎ去っていきます。
にもかかわらず、人はそれらを永遠の幸福であるかのように追い求め、執着し、苦しみます。
まさに世間は欲望の炎に燃え、その煙によって真実が見えなくなっているのです。
ルシ的視点から見るならば、人間最大の敵は外にはありません。
それは無明です。
真実を知らないこと。
本当の自分を知らないこと。
魂の存在を忘れてしまうこと。
その無明こそが、人を迷わせる最大の原因なのです。
暗闇の中を歩けば、不安になります。
しかし灯火が一つ灯れば、道は見えてきます。
仏法真理とは、その灯火なのです。
宇宙的視点から見るならば、高度な文明ほど「精神性」を重視します。
科学だけが進歩しても、心が未熟であれば文明は争いへ向かいます。
知識だけでは足りません。
智慧が必要です。
智慧とは、単に物事を知ることではなく、「真実を見抜く力」です。
宇宙連盟的な視点で言えば、文明の成熟とは、技術の高さではなく、心の高さによって決まるのでしょう。
だから彼らは、人類が精神的に成長することを静かに見守っているのです。
仏法真理的視点から見るならば、この偈は「燈明を求めよ」と教えています。
燈明とは、真理です。
燈明とは、智慧です。
燈明とは、仏の教えです。
それは遠くにあるものではありません。
本来、その光は自らの心の奥深くにも宿っています。
だから釈尊は、人々に外ばかりを見るのではなく、自らの内なる世界を見つめなさいと説かれたのでしょう。
何故、人は苦しむのでしょうか。
何故、争いは絶えないのでしょうか。
何故、欲望は次々と生まれるのでしょうか。
その答えは、心を知らないからです。
心を知れば、
欲望との付き合い方も分かります。
怒りの収め方も分かります。
悲しみを智慧へと変える方法も分かります。
そして、本当の喜びがどこにあるのかも見えてきます。
真なる笑いとは、魂が安らいだ時の微笑みです。
真なる喜びとは、真理に出会い、「ああ、そうだったのか」と心から納得した時の歓びです。
それ以外の喜びは、一時の楽しみで終わることも少なくありません。
もちろん人生には娯楽も必要です。
笑顔も大切です。
しかし、その土台に真理があれば、その笑顔はより深く、より温かいものになります。
人生とは、燈明を探す旅です。
そして、その燈明を見つけた人は、今度は自らが誰かの燈明となって歩み始めるのです。
NEPOからの提言
NEPOとして提言したいことは、
「毎日少しでも真理に触れる時間を持ちましょう。」
一節のお経でも、
一ページの読書でも、
静かな祈りでも構いません。
その小さな灯火が、やがて人生全体を照らす大きな光となります。
人類が地球を光の星へと変えていく第一歩は、一人ひとりの心に燈明を灯すことなのです。
ユーモア一つ
停電になると懐中電灯を探しますが、心が迷った時には「真理中電灯」を探したいものですね。
しかも、この電池は「感謝」と「反省」で長持ちするようです(笑)。
最後の一節
暗闇を嘆くより、
一本の燈明を灯そう。
その光は、
まず自らの心を照らし、
やがて家族を照らし、
社会を照らし、
そして地球を照らしていく。
真の喜びは、真理を知ることから始まる。
巡礼は続く。
KO