――ルシの声――
この偈は、じつに人間臭いところを突いています。
愚か者は、実力よりも“見え方”を欲しがります。
本当の修行よりも、他人からの不相応な尊敬を欲しがる。
本当の向上よりも、上位の席を狙う。
本当の徳よりも、僧房での権勢を欲しがる。
そして外へ出れば、他人の家に行っては供養を欲しがる。
要するに、心の中心が「真理」ではなく「欲」になっているのです。
このとき人は、学んでいるように見えて、実は飢えています。
立派に見えるようで、実は空っぽです。
名誉欲、権力欲、財欲――この三つは、なかなかしぶとい。
しかも厄介なことに、本人はしばしば「善意」や「正当性」の衣を着せて近づいてくる。
これがまた、なかなかの曲者なのです。
現代で言えば、これは宗教の世界だけの話ではありません。
組織でも、職場でも、SNSでも、家庭でも起こります。
「認められたい」
「上に行きたい」
「得をしたい」
「注目されたい」
この気持ちが強くなりすぎると、人は真実より評価を選び、誠実さより体裁を選びます。
その結果、周囲から信頼を失い、最後には自分自身の品位まで削ってしまうのです。
仏法の眼から見れば、これはまさに執着です。
執着は、持っているつもりで、実は持たれている。
欲を所有しているつもりで、実は欲に所有されている。
だから愚か者は、自分の欲に引きずられながら、なお「自分は賢い」と思い込む。
ここがもっとも危ういところです。
本当に大切なのは、尊敬を求めることではなく、尊敬に値する生き方をすることです。
上位を狙うことではなく、上位にふさわしい徳を積むことです。
供養を欲しがることではなく、与えられたものに感謝し、なお人のために尽くすことです。
つまり、外側の取り分ではなく、内側の成熟が問われているのです。
ルシ的に言えば、欲はエンジンにもなりますが、ブレーキを失えばそのまま崖に向かいます。
大事なのは、欲を消すことではなく、真理によって整えること。
欲望を燃料にせず、志を燃料にすることです。
この違いは、見た目は小さくても、行き着く先は天と地ほど違います。
――NEPOからの提言――
・「これは真理のためか、承認欲求のためか」を、行動の前に一度だけ自問する習慣を持つこと。たったそれだけで、道はずいぶん澄んできます。
ちょっとしたユーモアを添えるなら、名誉欲はたいへん立派な顔をしていますが、だいたい中身は“拍手待ちの小さな子ども”です。
そこを見抜けるかどうかで、大人かどうかが分かれます。
最後に一節。
欲に立つ者は、いずれ欲に倒れます。
真理に立つ者だけが、静かに、長く、遠くまで歩けるのです。