No. 1,260 こころのメモ1009(ACアダルトチルドレン札幌

248/365 家族と孤独を分かち合う






孤独。。



分かち合えるんやろか?🤣




孤独は、

わかってもらえなかった思い」の


集積された

場所であり
であり
であり

自分のことが嫌いだとする


かもしれない、、と、

イメージしながら書いています。






そんな

難易度【】な
孤独


家族と分かち合う…?




気は確かかっっ⁉️とツッコミ🤣



簡単ではなさそうですね。





それくらい

難易度【】だからこそ



もし仮に

家族と孤独を分かち合うことが
できれば、


どんな感じになるのか
想像と現実を
すり合わせながら
考えてみます。






分かち合う。。ということが

難易度を高くしますよね

それが家族とできるなら、

たとえACなんだとしても


問題の多くが
解決されたり

未解決であったりしても
「まあ、なんとかなるか」と
思えるのかもしれない。


問題にもならないで
気にならない・気にしないような

家族との交流になるかもしれない。



だから、

分かち合うことを考えればいいのでは?と
発想してもおかしくないですね。




だけど、、

それができないから
わかってないわけじゃなく

不可能に思えて仕方ないですよね。


家族に話しが通じないとか
攻撃されたりするので、

分かち合うなんてことには
絶対にならない。


人は変えられないし
人は自分が思いたいように思うので、


自分が分かち合いたいと願っても
家族は同じ願いじゃないかもしれない。





そんなワケで、

自分自身が
想像のなかで
分かち合っている姿を想像して
現実では不可能なのだとしたら、

孤独という無形で
よくはわからないけれど
でも確実に
自分のなかに感じる

孤独という
感情・感覚・状況について


まずは、

分かち合うことへ
寄せていく練習をしてみるのが

孤独によって
固く硬く閉ざした
心の

閉塞感を少しずつ

解放していくには

試してみる価値は
あるのかもしれません。





家族との交流が難しいとき
ACは極端に振れやすいので、

交流ゼロとか
復讐するとか
無関心になるとか


あまり

気持ちがいい交流にするのは
得意じゃないかと思われます。


だから、

自分の想像のなかで

まずは自分の孤独を確認して

家族にも孤独がないか確認して


もし家族にもありそうなら


自分と家族との
孤独という

似通った部分を探してみる。
(アレルギー反応があるのは道理)





似通った部分があるなら
どんな感じでしょう。。



孤独の共通点?
.本当は欲しいのに「要らない」
.カマって欲しいのにスネたまま
.無言を貫く
.笑ってごまかす
.本音は言わない
.嫌だと拒否しない
.自己犠牲
.苦しいのに平気なフリ
.人の顔色ばかり気にする
.世間体を最優先にして家族のことをないがしろにする
.人任せ
.夢や希望はないと言い続ける
.他人は信頼してはならない
.社会に出たら騙されて餌食になるゾ
.限界突破して倒れるまで頑張るのがデフォ
.人前では泣かない
.反射的に迎合する
.最終学歴を自慢する・卑下する
.妬む
.不平不満しか言わない
.摂食障害が改善できない
."子ども"をやらせてもらえなかった
.人の気持ちより自分の欲を優先してしまう
.モノで釣る
.人付き合いに条件をつける
.比べる
.三日坊主
.人をほめない・認めない
.冗談を言わない・面白くない
.暗い
.粘着質
.マウント至上主義者
.自分のこだわりが強すぎて周りが見えない
.行動の先の結果を考える前に行動する
.ソレをすることで相手がどう思うのかと想像しない
.相手を不快にしたり傷つけたりしても気づかない
.コミュニケーション能力に乏しい
.自信がない
.絶望している
.諦めている
.嫌味ばかり
.ダメ出ししかしない
.言うこととやることが違う
.約束を守らない
.その瞬間の感情での言動
.リセットぐせ
.依存が止められない
.批判と否定しかない
.口を開けばバカにする
.自分の非を絶対に認めない
.謝らない
.意固地
.感謝しない
.利己的
.自分の哲学は、ない


これらの箇条書きにしたことが
孤独を構成する要素としてあり
要約すると
「自分のことしか考えていない」
といったところでしょうか。




家族がもしこのような
要素を持っているのだとして


自分は
何が

悲しいのだろう?と思うなら


二つあるかもしれない


・本人は気づいていない
・「自分のために」変わろうとはしてくれない



そして、

家族に対する
嫌悪が

もしかしたら

自分にもあるのかもしれない。。と、


ソコを
見つめて認め

受け入れることから

すべては始まるのかも?(通過点)





まとめ

分かち合うことを考えた場合
自分が
はじめにすることは何だろう?




担当心理カウンセラー 
村上なおと

カウンセリングサロン Anela
札幌市中央区北3条西18丁目2-11 ブランノワールW18.exe 301号
・地下鉄東西線の西18丁目駅より徒歩8分


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ありがとうございます😊






























 たいていの親は赤ん坊とごく自然に接するので、どのように同調が起こるか、ほとんど自覚していない。だが、友人の愛着研究者エドワード・トロニックに招かれた私は、その過程をもっとつぶさに観察する機会を得た。ハーヴァード大学の人間発達研究所の、こちらからだけ向こう側が見える観察用のマジックミラーを通して、私はある母親が生後二か月の息子と遊んでいるのを眺めた。男の子は、母親と向き合うかたちで乳児用シートに座っていた。
 二人は互いに甘い声を掛け合い、楽しんでいたが、母親が身を屈めて鼻を押しつけると、興奮した赤ん坊は母親の髪の毛をぐいっと引っ張った。不意を衝かれた母親は、痛みで悲鳴を上げ、赤ん坊の手を押しのけながら、怒りで顔を歪めた。赤ん坊はただちに手を放し、二人は互いから身を引いた。どちらにとっても、喜びのもとが苦悩のもとに変わった。赤ん坊は見るからにおびえ、両手を挙げて顔にあてがい、怒った母親を視界から遮断した。それを見た母親は赤ん坊が動揺しているのに気づき、彼に注意を向け直し、落ち着かせるような声を出して丸く収めようとした。赤ん坊は相変わらず目を覆っていたが、まもなく、つながりへの渇望が再び頭をもたげた。そして、手の間から覗き見て、もう大丈夫かどうか確認していると、母親は心配そうな顔で赤ん坊に向かって手を伸ばした。彼女がお腹をくすぐり始めると、赤ん坊は両腕を下げ、急に嬉しそうにくすくす笑い出し、二人はまた打ち解け合った。赤ん坊と母親は、再び同調したのだ。喜び、不和、関係修復、新たな喜びというこの一連の変化は、全部で一二秒もかからなかった。
(中略)
 安定した愛着が能力の育成と組み合わさると、内的な統制の所在(行動や評価の原因を自己の能力や努力に帰すること)につながる。これは一生を通じて、外界に健全なかたちで対処するためのカギを握る要因だ7。安定した愛着を持っている子供は、何が自分の気分を良くさせるかを学ぶ。何が自分(と他者)の気分を悪くさせるかを発見する。主体感覚を獲得し、自分の行動が自分の感じ方や他者の反応の仕方を変えうることを理解する。安定した愛着を持つ子供は、自分が制御できる状況と、助けを必要とする状況の違いを学ぶ。困難な状況に直面したとき、自分が能動的役割を果たせることを学ぶ。それとは対照的に、虐待やネグレクトを経験した子供は、恐怖を覚えようが、懇願しようが、泣こうが、養育者には認識されないことを学ぶ。彼らが何をしようと、何を言おうと、殴打は止まないし、注意を向けられることも、救いの手が差し伸べられることもない。彼らは事実上、のちの人生で難題に直面したとき、諦めるように条件づけられているわけだ。
(中略)
 私はこれまでずっと、どうして親が子供を虐待するようになるのか不思議に思ってきた。なにしろ、健全な子供を育てるというのは、人間の目的意識や存在意義のまさに核心にあるからだ。親は何に駆り立てられて、わが子を故意に傷つけたり、ネグレクトしたりしうるのか。ライオンズ=ルースの研究は、一つの答えを与えてくれた。彼女の録画を観ていてわかったのだが、子供たちはしだいに慰めようがなくなったり、むっつりしたり、同調しそこなった母親に対して反抗的になったりしていった。一方、母親たちのほうも、子供との相互作用の中で徐々に苛立ち、打ちのめされ、無力になっていった。いったん母親が子供のことを、同調した関係におけるパートナーとしてではなく、癪に障る、腹立たしい、心の通わない他者として見るようになると、その後の虐待の舞台が整う。
 一八年ほどあと、これらの子供たちが二〇歳前後のとき、ライオンズ=ルースは追跡調査を行い、彼らがどうしているかを調べた。生後一年半のときに母親との情動的意思疎通のパターンが深刻なまでに混乱していた子供は、自己感覚が不安定で、自己破壊的な衝動(浪費、性的逸脱、薬物濫用、無謀運転、過食など)を持ち、不適切で強烈な怒りを抱き、頻繁な自殺関連行動を見せる若者になっていた。
 ライオンズ=ルースと共同研究者たちは、敵対的な、あるいは押しつけがましい母親の行動は、子供が精神的に不安定な大人に成長することを予想するうえで、最も強力な手掛かりになると考えていたが、結果は違っていた。親が情動的に自分の殻に閉じこもることが、最も深刻で長期にわたる影響をもたらしたのだ。情動的な隔たりと役割の逆転(母親が子供に面倒を見てもらうことを期待するような場合)は、子供が若者になったときに、自分や他者に対してとる攻撃的な行動と、明確に結びついていた。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク「身体はトラウマを記録する」p184-187、p198-199より抜粋
7.M.Main,"Overview of the Fieid of Attachment,"Journal of Consulting and Clinical Psychology 64,no.2(1996):237-43.







トラウマの束縛
 何かの縁で人と人とがつながってゆくのは素晴らしいことです。仲睦まじい夫婦、親子の絆、友達同士の縁など強くて心温まる人のつながりは有り難いものです。しかし人間同士の強いつながりのなかには残念ながら有害なものもあります。飴と鞭を繰り返すことで形作られる虐待的な人間関係は非常に強固なトラウマの要因となります。トラウマの束縛とは、怖れ、興奮、危機感、スリル、セックスに伴う強い情動などをベースにして築き上げられた病んだ人間関係です。極端な状況下で強烈な感情を誰かと一緒に味わうと、人と人は強く結びつきます。それは良い場合もありますが、トラウマの束縛の場合は、そのきわめて悪い例であると言えます。
 トラウマの束縛の多くは、子ども時代に親から虐待を受けたり、精神的または身体的な見捨てられ体験をしたりすることから生じます。そして、その子どもが大人になると今度は恋愛相手や自分の子どもに対して新たなトラウマの束縛を自ら再生産してゆくのです。本人のトラウマ自体を癒さなければこの世代間連鎖は止まりません。

クラウディア・ブラック「あなたの苦しみを誰も知らない トラウマと依存症からのリカバリーガイド」p129より抜粋




「[私は]人生を幸せで快くしうるさまざまなものに囲まれているというのに、それでも私には喜んだり感じたりする能力が欠けています。・・・・・・私の感覚のそれぞれ、私の本来の自己の各部が、いわば私から切り離され、もはやどのような感情も抱かせてくれないかのようです。この状態は、自分の頭の前部に感じる空白に拠っているようであり、自分の体の全表面における感覚能力の鈍麻のせいのように思えます。なぜなら、私は自分が触れるものに、実際にはけっして手が届いていないように思えるからです。これはみな、些細なことなのでしょうが、恐ろしい結果を伴うので、そうも言えません。他のどのような感情も、どんな種類の楽しみも、私がそれを必要とし、望んでいるにもかかわらず不可能であり、人生を計り知れぬ拷問に変えてしまうという結果です」

ウィリアム・ジェイムズ『情動とは何か』1884年 W.James,"What Is an Emotion?"Mind 9:188-205.
ベッセル・ヴァン・デア・コーク「身体はトラウマを記録する」p150より抜粋




 人格の統合性とは死に直面しても人生の価値を肯定しうる能力であり、自己の人生の限界の有限性と人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、絶望なくして現実がそういうものであることを受容する能力である。

人格の統合性は対人関係における信頼をそもそもその上につくった土台であるが、いったん砕かれた信頼をとりもどす土台でもある。

ケア提供的な関係における人格の統合性と信頼との緊密な相互関係は、世代から世代へと引き継がれる鎖の輪のつながりを完全なものにし、外傷が破壊する人間のコミュニティ感覚を再生させるものである。

ジュディス・L・ハーマン 「心的外傷と回復」p240より抜粋