脚気と結核は、かつて日本の国民病だった。

 

脚気は、急性のビタミンB1不足が原因で、慢性では、足のむくみ、知覚麻痺や心不全になる。

 

主食が、玄米から白米に代わった江戸時代から増え、「江戸煩い」「大阪腫れ」と言われた。

 

明治期は、特に軍隊で流行したが、海軍と陸軍の対応は違った。

 

病気になったのは、白米中心の水兵だけだったので、イギリス医学を学んだ海軍軍医総監:高木兼寛は、白米を麦飯・洋食に切り替えたことで、殆んど発症しなくなった。

 

(高木男爵は、貧しい人のための無料診療の東京慈恵医院の開設や我国初の看護婦養成所も設立している。)

 

1883年(明治16年)、ニュージーランドを目指した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」では、378名中、169名が脚気となり、23名が死亡した。

 

高木は、徹底的な調査の末、脚気が食事と関係していることを突き止めた。

 

脚気は、欧米に存在せず、在日の外国人にも発病しない。

 

また、貧しい下級兵卒は、副食費を仕送り、配給米(白米)だけを食べたので、脚気になると解釈した。

 

1884年、35歳の高木は、伊藤博文公に上申して「龍驤」と同じ航路で軍艦「筑波」を派遣する実験をした。食事は、全部、肉類、牛乳などの給食とした。

 

結果は、287日間の航海期間中、333名の乗組員のうち、脚気患者は、15名だけ。死亡:0。脚気発症者15名中、8名は、肉を食さず、4名は、牛乳を飲まなかった。

 

兵食改良を進めた海軍では、日清・日露戦争を通じて、脚気患者は、ほぼ皆無だった。

 

対して、陸軍は、ドイツ医学が主流で、東大教授も軍医もドイツで学んだ者ばかりだった。

 

徴兵するに、一日六合の白米:″銀シャリ″を腹一杯食べることは庶民の夢だったので、麦中心には、変えられなかったと説明される。

 

日清戦争時(1894年:明治27年)の軍医総監は、伝染病説を強く唱える石黒忠悳。彼は、陸軍の山縣有朋の腹心だった。

 

後の総監森林太郎(鴎外)は、石黒の忠実な部下であり、論文でも白米の優位さを説き、高木説を否定した。

 

日清戦争の脚気死者は、海軍0で、陸軍は4千人。

日露戦争(1904年: 明治37年)の陸軍110万人派遣の中、戦死:12万人、脚気患者:21万人、うち2万8千人が脚気で死亡した。

 

ロシアは「歩行もままならない幽気のような日本兵」が、最新鋭の機関銃の餌食になったと記した。

 

高木は、日露戦争終結の翌年、1906年(明治39年)、米英で脚気予防の公演をして、彼の業績が高く評価されているのを感じた。

 

一方、森鴎外は、1907年に陸軍軍医総監に就任し、1916年に退官するまで、米食至上主義を守った。

 

脚気がビタミンB1欠乏症であることが、医学会で認められるには、1925年、臨時脚気調査委員会の最終答申まで待たねばならなかった。

 

実に問題が認識され始めてから、40年以上が、経過していた。

 

1944年、インパール作戦以降の日本軍の無謀な作戦実行をみて、日本のリーダーシップに「道徳的勇気の欠如」があると称した英将校の認識は、現代も続いている。

 

(以上、医学関連の文献を参考にして私がまとめた。)

 

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この話は、数値だけを追えば、容易に判断できることを、組織リーダーたちの執着や意地の張り合いで、多数の死亡者までもが出た例である。

 

私は、1990年代と2000年代の2度、仕事で途上国人材を育成する環太平洋諸国(日米豪.タイ.フィリピン.インドなど)の、いくつかの一流大学院を調査したことがある。中に東大医学部も入っていた。

 

外部の私たちは、入学試験の難度をもって大学を評価する傾向にあるが、どの組織も教授陣の考え方、資金源など、各々、特定の制度や仕組みの下にあり、教育機関としての評価は、入試の難度とは、別である。