戦後、米兵を、一つの武道を極めた高齢の日本人武術家と戦わせたところ、米兵が完敗する映像が残っている。

 

試合時間は、数秒である。

 

 

大きな体の屈強の米兵が、小さく痩せた高齢の日本人に負ける理由が、彼らには、理解できない。

 

そこで、GHQは、戦後、「日本の武道は、とても容認できない。」と感じ、練習を禁じた。一方、日本各地で有段者による武道の試技見学は、たいへん流行った。

 

現代人の我々が、理解するとすれば、武道の高段者の動きは、人というより、戦闘モードの「獣」と考えると良いだろう。

 

(座禅の修行では「人を離れろ!」などと言われる。

 

能楽では、演者が無我になり、観客までもが、魔術にかかった精神状態を楽しむ。

 

現代風に言えば、極限の集中状態であり、スポーツ選手が「Zone」に入った状態である。

 

瞬間、体も心も無になっている。

 

また、「武道の精神や哲学」を調べると、彼らから見ても、清廉で対抗する哲学が西洋には、ない。

 

欧米人の中には、日本の武道研究の結果、日本に実在した「サムライ」に強いロマンを抱く者がある。

 

私は、留学中、英国人教師から、戦場に向かうある夫の侍への彼の妻からの手紙(英文翻訳)を見せられたことがある。

 

この英国人は、"This is the most beautiful love letter I have ever seen." 

 

「これほど、美しく心打つラブレターを見たことがない。夫の侍としての責任と義務。それを真っすぐ支える妻の心情が、見事に出ている。」と言うのである。

 

この英国人が、感激したのは、おそらく、夫の忠誠と妻の純粋さ、夫婦二人の思いの透明さである。

 

欧米文化と異なり、日本人の心情(文化)は、規模や豪華さでなく、清澄さを求めている。

 

その精神が、外国人を感激させる。

 

日本の武道には、神道と仏教の洗練された影響があり、実技と哲学に齟齬がない。

 

戦後、日本人の武道家と戦ってみると、優れているべき西洋(米国)が、一対一の裸の人間同士の戦いでも、哲学においても、かなわない。

 

日本の武道家は、寡黙に自分自身と戦っているのであって、どこの誰をも、相手には、していなかったのだ。

 

つまり、武道の心は、憎悪など卑しい感情から、離れたところにある。

 

 

弱いものを軽蔑しているわけでもない。

 

彼らは、弱者にも敗者にも礼儀を忘れない。