若い頃、技術者としてシェル系の石油会社にいた。

 

当時、思わなかったのだが、結構、不思議な人たちがその外資系の石油会社にいた。

私に米語でなく英語を話すように指導し、国際交渉を教えてくれた(故)近藤国太渉外室長もその一人で、彼は、生涯を通して岸信介元総理大臣の通訳をしていた。

 

彼の波乱万丈の人生は、近藤藤太として講談社刊「人生の旋律」で描かれている。

 

岸信介氏は、当時、自民党の重臣として特に対米外交を支えていたようである。また、取締役の一人は、白洲次郎が通商産業省を創設、3カ月で退任した後、通産次官になった永山時雄氏であった。社長は、経済企画庁次官をした中野正一氏だった。

 

当時の私は、まるで歴史を知らなかった。

 

それは、シェル石油がイギリス出身のユダヤ人マーカス・サミュエル(1853~1927年)により日本の横浜で設立されたことである。

 

もう一点は、彼が、日本の日清戦争での勝利に大いに貢献した点であった。

 

彼は、1871年(明治4年)、18歳で学校を終え、ロンドンからひとり船に乗った。彼は、父にもらった片道切符と懐(ふところ)に入れた5ポンド、およそ今日の5万円のカネだけをもっていた。

 

そして、湘南海岸で面白い貝を拾っては、本国に送ったので、ロンドンにいた父親の商売が繁盛したという。

 

サミュエルは、1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手に商売を大きく広げていった。

 

商売で大成功をおさめた彼は、インドネシアで石油を採掘させ、

「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。

 

サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日であった。

 

やがて、サミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインし、やがて「タンカー王」となった。

 

当時まで、石油運搬には、樽を使っていたのである。

 

(現在でも石油精製装置の処理量を xx万バーレルというのは、そのためである。また、1 bbl: バーレルは、159 リットルである。)

 

1894年、「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油、兵器などの軍需物質を供給して助けた。

 

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」を授けられている。

 

1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」を社名としたのだった。

 

こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

 

ちなみに、このイギリス=オランダ連合の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油:略称BP)だそうだ。

 

1907年、ロスチャイルド財閥の仲介により、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

 

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。

 

そして1902年に、ロンドン市長になった。

ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

 

は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

この年1月に「日英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。

この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。

 

参考資料:「ヘブライの館」

 ( http://www.snsi.jp/tops/daini/1428 )