これまで日本では、企業も公的組織も「人」大切さのあまり「人」を見て「人」を評価し「人」に支払うという「人基準」の評価・報酬制度 から来る価値基準が、人々の意思決定に大きな影響を与えてきた。


その結果、顧客(市場)における仕事の価値よりも、人間関係や仕事関係で、経済的に是認しがたい「悪い和」が広がり、結局、日本全体で大きな債務を抱えこんでしまった。


では、もっと具体的に、「人基準」の反対の「仕事基準」という考え方が、どのように企業経営での判断に役立つのかということを、説明してみたい。


かつて50年近い社歴のある企業で関係会社の企画を担当したことがある。この企業は、準大手として既に上場しており、経営状態は、健全に見えた。しかし、社長と様々の経営課題について、話していると、病根が非常に根深いことに気付いた。


社長は、「20年近く社長をしていると、だんだん人が見えるようになる。」という。「色々な計画が、提案されて

くるが、誰が提案しているか、それだけで判断に十分だ。」というのである。毎月の経営会議に出てみると、会議は、形骸化しており地域毎に営業上の数値を説明するだけである。コメントを出すのは、社長だけで、参加者の間で意見交換や内容確認もなく、雰囲気は、実に抑圧的なものであった。私は、関係会社2社の経営再建を担当していたが、やがて本体が、民事再生となった。


このように、企業のトップが、「仕事の価値」(市場価値=顧客価値)で評価するのでなく、社内の「人」だけを見

る「人基準」では、やがて組織の競争力が失われる。トップの考え方で組織全体が「人基準」文化に染まる。トップに気に入られ、上に意見が通る人と、そうでない人というラベルが中間管理職にはられ、勝ち組み、負組みや派閥が生成する。


何が提案されているかより、誰が提案しているかが重要とされているのである。


特に歴史ある企業では、年配者が多く「君子は・・。小人は・・。」という「人基準」の儒教の影響で、人格・性格がどうあらねばならないかということに注意が向きすぎる。彼は、どう、彼女は、どうだという「人基準」の形容語句が氾濫し、組織文化が重苦しくなる。


市場メカニズムの資本主義社会では、企業人は、顧客価値を求めて活動を行い、自社にとっての利益確保のため顧客を説得するという「仕事基準」のアプローチが不可欠である。企業トップ同志の人間関係、取引関係などしがらみは活用するとしても、それは、それで、さておき、ビジネスは、ビジネスという視点が欠かせない。


自社の利益確保もできない低価格での見積りを出せば、市場価格が下がり業界全体に迷惑をかける。


「仕事基準」を貫くことは、企業の行動上の経済社会の中での倫理として必要なのである。


つまり、組織の安定継続には、儒教的な考え方が、礼儀や思いやりと言う意味で重要であるが、企業の健全な経営のためには、さらに儒教を超えるところまで考えが及ぶ必要がある。(その意味では、武士道も同様で、それだけでは、企業経営には、不十分である。)


もう一つの例は、かつての土地バブルの生成と崩壊である。不動産会社は、増益のため不動産を妥当性がある限り高く評価する傾向があることは、否めないだろう。しかし、それ以外の一般企業の多くが、不動産会社の言うことを鵜呑みにバブル時に高い買い物をして、長期に過大な有利子負債を抱えた事実を例にして考えよう。


ものの価格決定の方法には、大きく2通りがある。売主側に立てば、コストを積み上げた結果に10%などの株主配当のための利益を確保し、その価格を最低限とする。もう一つは、購入側にとってものの購入により、将来得ることができる便益(=利便性や経済的価値)の合計を最高値とする。新しい代替品であれば、既存製品価格が最高となり、それからどれだけ、安いかということが、ポイントであろう。


土地購入時の「仕事基準」での判断は、土地購入により企業が得るだろう将来利益から現在価値を算出し 、土地購入という意思決定の価値評価をする。土地転売だけを目的としない限り、土地購入により追加的に得られる将来利益(限界利益)より支払価格が高ければ、企業は、土地購入を踏みとどまる。


我が国には、固定資産税評価において収益還元法を採用する制度も慣行も弱いとは言え、そのことが、収益還元法による評価を行わない理由にはならない。


土地売買の話があると路線価を調査し、価格の妥当性をみることは、よく行われる。


しかし、「仕事基準」に立脚すれば、そもそも路線価は、自社の企業活動のために必要な土地価格の検討には、不必要なのである。


渡辺穣二 http://iedi.org/across/