上機嫌の種をまく
アランの心に響く言葉より…
■明るいことばを、心からの感謝のことばを、ひとことかけよう。
冷めた料理が運ばれてきても大目に見よう。
この上機嫌の波に乗ればどんな小さな浜辺にでもたどりつける。
オーダーをとってくれるウェーターの声の調子が違ってくる。
テーブルの間を通っていく人たちの態度も違ってくる。
こうして上機嫌の波動は、自分も含めたみんなの気分を軽やかにしながら、自分の周りに広がっていく。
これには際限がない。
とはいえ、始め方には細心の注意をはらおう。
気持ちよく一日を始めよう。
気持ちよく一年を始めよう。
■うれしそうな表情は、だれにとっても気持ちいいものである。
自分がよく知らない人の場合はとくにそうだ。
その意味を考えたりせずに、額面どおりに受けとればいいからである。
それがいちばんいいことなのだ。
うれしそうな合図には、それを発信した本人をうれしくさせる傾向があるということは、奥深い真実である。
こういう喜びに満ちた表情は、それを見ならうことで、絶えず自分に返ってくるのだ。
■にこにこしたところでどうということはなく、それで気分が変わることもないように思っているから、わたしたちはにっこりしてみようともしない。
ところが、しかたなく愛想笑いを浮かべて丁寧にあいさつをする礼儀正しさのおかげで、すべてが変わることはよくある。
生理学者はその訳を百も承知している。
笑顔はあくびと同じように体の奥深くまで広がって、のど、肺、心臓というふうに次々と緊張をゆるめていくのである。
ここまで即効性があり、かつ絶妙のバランスで効く薬を見つけることは、医者でもたぶん無理だろう。
『アランの幸福論』ディスカヴァー
「悲観主義は感情からくるもの、楽観主義は意志からくるもの」
というアランの言葉がある(本書より)。
つまりぐっとこらえたり、コントロールせず、感情のおもむくままに暮らしている人は、悲観主義になってしまうということ。
だからこそ、楽観主義には意志の強さが必要。
不機嫌と上機嫌も同じで、上機嫌になるには意志が必要。
どんなときも上機嫌であろうと決め、嘘でもいいから、笑ったり、冗談を言ったり、機嫌よさそうにしていると、やがて本当に機嫌がよくなってくる。
笑顔も同じで、別に嬉しいことがなくても、笑顔でいると後から嬉しいことがやってくる。
上機嫌の種をまく人でありたい。
「人の心に灯をともす」より
…と書かれていました。
「素直さ」こそ最強の武器である
斎藤一人さんの心に響く言葉より…
自分が現在やっていることや、話している言葉に「愛」があるかどうかと考えてみるといいよね。
わがままで、嫌われてしまうのは、やっていることや使っている言葉に「愛」がないからなんだよ。
あなたの言動に愛があるか、ないかの違いなの。
わかるかな?
それさえ気をつければ、大抵のことはうまくいくんだよ。
素直さを取り戻すっていっても、本来はあなたの心の中に必ずあるものだしね。
それとね、人と自分は違うんだってこともわかった方がいいの。
他人と自分を比べることをやめるの。
同じ人っていないんだよ。
目だって、鼻だって、指紋だって違うしDNAも全部違う。
一つも同じものってないんだよ。
幸せになりたいならば、これから先は、自主性を持たなければ幸せにならないよ。
自主性って、とても大事になってくるの。
人まかせっていうのは、20世紀で終わったんだよ。
魂の時代っていうのは、自分本位の時代ってことなの。
だって、魂にしても人それぞれで、全部違うんだから。
少し前の時代までは、貧しくて食べるのもままならない時代だったら、みんな我慢して周囲に合わせていたんだよ。
自分だけ勝手なことを考えちゃいけないとかね。
だけど、今は豊かになったから、自由にしていいの。
みんなと同じという時代が終わって、これからは、もう違う時代なんだよ。
だから、これから学ばなきゃいけないのは、それぞれが幸せになるっていう「魂の時代」が来たってことを理解することだよ。
私には私の考えがあり、あなたにはあなたの考えがあるってことなの。
夫婦になって、「俺が幸せにしてやるよ」って言ったところで、そんなのできないよって話なの。
たとえ夫婦っていっても、幸せの価値観て違うしね。
自分のことは自分で幸せにすればいいの。
素直になってみるとできるんだよ。
あなたの魂は、もうその方法がわかっているからね。
『「素直さ」こそ最強の武器である』秀和システム
松下幸之助翁は、「素直な心」についてこう言っている。
『 素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。
また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります』(素直な心になるために)より。
そして、
『素直な心のうどん屋さんであれば、“この不況は自分の力を存分にふるうチャンスだ。
自分の本当の勉強ができるときだ”というように考えるのではないか思うからです。
したがってそのうどん屋さんは、従来の自分の商売のやり方とか考え方を、私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すと思います。
今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。
このようにして、そのうどん屋さんが素直な心で対処してゆくならば、不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客が増えて繁盛してきた、というような姿を生み出すこともできるようになるわけです』
素直な心とは、すべてのことに対して、従順になれとか、言うことを聞け、という訳ではない。
従順とは、おとなしくて、人の言うことを「ハイハイ」と聞いたリ、人に逆らわないことを言う。
だが、これでは自分というものがまったくなくなってしまう。
本当の素直な心とは、謙虚に学ぶ姿勢とか、利己の心ではなく利他の心を持つことであり、人のせいにしない姿勢のこと。
利他の心は人を喜ばせること。
つまり、愛ある言葉をいつも使うこと。
人のせいにしないとは、自らが決め、自ら主体的に動く姿勢のこと。
素直な心を身につけたい。
「人の心に灯をともす」より
…と書かれていました。
美しさへの三つの条件
渡辺和子氏の心に響く言葉より…
真山美保さんの作品に「泥かぶら」という一人の顔のみにくい子どもの話がある。
みにくいが故に村の人々から嘲(あざけ)られ、子どもたちから石を投げられたり唾をかけられたりした。
それを口惜(くや)しがっておこる少女の心はますます荒(すさ)み、顔はみにくくなる一方だった。
ところがある日のこと、その村に一人の旅の老人が通りかかり、竹の棒をふりまわして怒り狂う泥かぶらに向かって、次の三つのことを守れば村一番の美人になれると教え、自分はまた旅をつづけていくのであった。
その三つのこととは、
いつもにっこりと笑うこと
自分のみにくさを恥じないこと
人の身になって思うこと
であった。
少女の心は激しく動揺するが、美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力がはじめられる。
決心は何度も中断され、あきらめようとするが、また気をとり直してはじめる泥かぶらの顔からはいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになってゆく。
明るく気持ちのよい少女は村の人気者となり、子守にお使いにと重宝がられる者となったのであった。
そんなある日、同年輩の娘が人買いに買われてゆくのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりとなり連れられてゆく。
道々たのし気に村の様子を話し、自分がかわいがった村の赤子たちについて語る少女の心はいつか狂暴な人買いの心を動かし始めたのであった。
彼は前非を悔い、置手紙を残して立ち去ってゆく。
その手紙には、
「ありがとう。ほとけのように美しい子よ」
と書かれてあった。
そしてその時泥かぶらは、かつて旅の老人が約束した言葉を理解したのだった。
人の顔の美しさというものは目鼻立ちの良さよりもやはり自分が努力してつくってゆく美しさであり、生きている美しさだと思う。
整った顔とか、形のよい顔というのは生まれながらのものかも知れないが、美しい顔というのは、生活の中に生まれ、彫りきざまれて出来たものである。
男女の別なく顔はその人の心の生き方のあらわれでしかない。
年をとっていよ増す美しさ、また素顔の美しさというものを、もっとたいせつにしてゆきたいものである。
ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが
相手にとって非常に価値をもつものだ
ほほえまれたものを豊かにしながら
ほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように瞬間的に消えるが
記憶には永久にとどまる
どんなにお金があっても ほほえみなしには貧しく
いかに貧しくても ほほえみの功徳によって富んでいる
(中略)
もし あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら
不愉快になる代わりに
あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際 ほほえみを忘れた人ほど
それを必要としている人はいないのだから
この詩は昔ある方から教えていただいたものだが、特に最後の数行はとても美しい真理をあらわしていると思う。
とかく期待したほほえみや、あいさつ、やさしい言葉が得られないと不愉快になり、自分からも相手に「してやるものか」という気持ちになりやすい。
しかしほんとうによく考えてみると、できない相手こそ、それを私から必要としている人なのだということ、ここに思いやりがあり、相手の出方に左右されない主体的な生き方がある。
『美しい人に』PHP研究所
渡辺氏は本書の中で「人の身になって思うこと」についてこう書いてある。
『ある日、弟子たちがキリストに向かって、
「先生の説いておられる愛とはどういうことですか」
と尋ねたところ、キリストは、
「自分にしてほしいと思うことを他人にすることだ」
と答えた。
理解されたいと願う人は、理解する人になること、慰められてうれしかったら、他人にもやさしい言葉をかけること、愛された喜びを他人に分けることが愛である』
自分からは何も出さず、「ちょうだい、ちょうだい」とまわりに何かを要求ばかりする人は多い。
自分のことを認めてくれない、誰もやさしい言葉をかけてくれない、誰も誘ってくれない、という「くれない族」だ。
「自分にしてほしいと思うことを他人にすること」
ほほえみと、自分への自信と、人の身になって考えること、を大切にする人でありたい。
「人の心に灯をともす」より
…と書かれていました。