火事に乗じて逃げだす子供達だが、何と残っている子供がまだいた。
フィルと言う三歳の少年だが、彼も事情を把握している。なのに、残っているのは何故か?
答えは、事情を把握しているからこそだ。子供達は、脳が食べごろになるまで、つまり最低でも六歳になるまでは「出荷」されない。
つまり、ここで全員が逃げ出して全滅のリスクを負うより、比較的幼い子供達を残して、再び救助に向かう事にエマ達は賭けたのだ。
普通なら、と言うか並の人間なら「自分も連れ出して欲しい」と思うだろう。助けが来なければ、怪物の餌として食われる事が確定しているのだから尚更だ。
三歳でも覚悟が決まっていると言うか、かなり賢い思考だ。
いくら合理的だとしても、その先に「死」と言う恐怖がある以上、平静を保つのは、まして「残る」と言う選択を受け入れるのは大人でも難しいと思うのだが…これもノーマンの意思が残した物か。
かくして幼年組を残し、ついに脱走が完了する。イザベラもかつては農園の孤児院出身で壁の外を確認し、絶望している姿が回想として描かれている。
やはり彼女にも葛藤があったようだ。ここまでで5巻の半分。
逆に言えば、脱走への道筋だけで物語が成立していた事がわかる。
そして、物語のゴールは脱走では無かった。ここからは、ロードムービーとサバイバルが始まるのだ。
物語の方向がガラッと変わってしまうが、テンポの良さは素晴らしい。むしろ脱走だけで物語が終わってしまったら肩すかしだ。
ただし、果たして子供達は生き残れるのかと言う疑問がつきまとう。
あまり子供が無残に死ぬシーンは見たくないが…この物語では1話目でいきなりそう言うシーンがあるので、そう言う漫画として見る事ができる。
これは捻くれた物の見方かもしれないが、大人数での脱出も、映画等での「死亡要員」のように見えて来て恐ろしくなってくる。
全員生きて欲しいなとは思いつつページを進めると、肉食の巨大植物等と言うバカげた物に遭遇する。
あーやっぱり外は修羅の世界なんですねぇ。じゃなくて、そう言う世界だったのか!ここはファンタジーだったんだ!と初めて理解した。
いやまぁ鬼のような怪物がいる時点でそれはそうなんで、今更驚く方が変なのかもしれない。
外の本がガイドブックだと気づいた事で窮地を脱したように見えるが、今度は追手とは別の「鬼」が現れ、鬼ごっこの時間になる。
テンポが良いとは言ったけど次から次へと外の世界ヤバすぎませんかね…。
こう言った物語の何が恐怖かと言うと、主人公達は基本的に「為す術が無い」と言う事にある。
ホラー映画なんかでもそうだが、対抗手段が無いのが怖いのだ。逆に武装していたり、対抗手段がある作品は別のジャンルとして続いていく事だろう。
そして現れる本物の追手。息を吐かせる事を知らない作品だ。相手は子供やで。
またまた鬼ヒキで次の巻へ。続きを読まずにはいられないと言う心理に陥る作品だなとしみじみ思った。
これは余談だが鬼ごっこの最中、子供達が思い浮かべた、「ノーマンより怖くない」「シスターより怖くない」と言う言葉には含蓄がある。
彼らの思い出の中のシスター・クローネはかなり凶悪な(面白い)表情なので、やはり子供達からは「そう思われていた」らしい事を知り、思わず笑ってしまった。
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