三年半後の被災地を行く②:石巻市・日和山公園。 | どんぐり、ころころ。

どんぐり、ころころ。

オタク半分、マジメ半分くらいで、たまに飯やら菓子の話しをするブログ。

前回は仙石線を代行バスで乗り継いで、石巻に到着です。



さて、本題に入る前に。


石巻訪問の際に大変重宝させていただいたサイト「石巻百景」さんから、このページをまず挙げておきます。


「被災地見学の注意点と、おすすめの見学ルート」

http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html


どこの被災地を訪問するにしても、心がけたい文章です。


実際、この旅の中でも某所で「張られた規制線を無視して破壊された建物の中に立ち入る」という行為を複数回にわたり目撃しました。

それも明らかに自分なんかより2倍近く歳をとっていらっしゃるようないい大人が、です。


当たり前のことですが、規制線が張ってあるのは、そこが倒壊などの危険があるためです。

それに何もない更地のように見えても、そこは私有地です。

少なくとも自分の家じゃない。


これ以上は言いません。

常識と良識のある方なら必要ないと思うので。




《9月8日11時:石巻市・日和山公園》


石巻では、電車を一本下げて、

『日和山公園』まで歩いていきました。


140908_105114.jpg


石巻駅から徒歩だと30分はかかります。

商店街を抜けて、住宅地の中のかなり急な坂を10分近く登って着きます

標高60mを一気に登りますので、歩いていくとかなり息が切れます。

しかし、そんな高台だからこそ日和山公園に避難した方々は未曾有の津波から助かりました。


この場所からは、被災地の中でも特に津波の被害が甚大だった地区のひとつ、

石巻市「南浜」と「門脇」の地区を広く見通すことが出来ます。

漁港や工業地区、石ノ森萬画館のある中瀬地区も見渡せます。


140908_105505.jpg

三年半が過ぎて、広大な芝生のようになっていますが、

ここには確かに家が密集し、多くの人の暮らしがありました。


ぽつんと一軒だけ残った家があります。

そちらと比較してもどれだけの広大な空き地と化しているのかがご想像いただけるかと思います。
140908_110319.jpg
工業地区と漁港の方面には震災前の光景を写したパネルがかけられています。

それだけでも、ここに確かに活気ある街が存在したこと、

そして、その街が十数分のうちに津波によって、丸ごと消えてしまったことを偲ぶことが出来ます。


漁港周辺は少しずつ復興に向かっており、
140908_110130.jpg

大規模なかさ上げ工事が進んでいるのが分かります。


奥に見えるのは「日和大橋」、ここが河口です。

ご覧のように、海と接するように街が広がっていた「南浜・門脇」地区には、

何も遮るものがなく津波が直撃しました。




当時の被害状況を調べているうちにやるせない気持ちになりました。


参考:


「石巻市に押し寄せる津波」

25分程度の動画です。

この映像が撮影されているのが正に日和山公園の自分も訪れた展望台。

ものの十数分でひとつの街が呑み込まれた様子が克明に記録されています。

当時雪だったため映像はぼやけていますが、異常な水位と不気味な水面の様子がよく分かります。

実際に日和山公園を訪れてみると、この映像が信じられません。

http://www.youtube.com/watch?v=eBs7yfl8Se0


「石巻市南浜町・門脇地区(フォトショップみやぎ)」

震災直後(発生から6日目)の南浜・門脇地区の被災状況の貴重な記録を公開されています。

率直にいうと非常に生々しいです、見る人によってはかなりショッキングな映像だと思います。

他の地域の被災状況についてもおおむね発生から2ヶ月以内に撮影されており貴重な記録だと思います。

なお、リンクについては良いのですが、画像を利用する場合にはフォトショップみやぎさんへの許諾申請が必要ですのでご注意ください。

http://photo-miyagi.com/311/minamihama.htm


「【震災被害】津波と火災の後の門脇町と南浜町(石巻百景旧館)」

石巻百景の管理人さんが震災2日後に親戚の方を探しに南浜・門脇地区へ行かれた際の記録。

遠景が多いので、いかに広範囲の街が被害に遭ったのかがよく分かります。

http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2011/03/blog-post_4691.html


石巻在住の石巻百景管理人さんによると、どうも防潮堤といった防災的な建造物がこの地区にはなかったようです。

(参考:http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2013/09/kitakamiteibou.html

同じ石巻市内海岸部の渡波地区には防波堤や消波ブロックがあったため、

南浜・門脇地区と比べると被害の大きさに差が見られるという見方もあります。

(参考:http://www.celestial-spells.com/logs/2011/03/post_114.php


「石巻を襲った大津波の証言」

被災された住民の方々の体験談をまとめたサイト。

被害の大きかった南浜・門脇地区の方の体験談も多く載っています。

あの場所に行ってから読むと、更に津波の恐怖を感じます。

http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_ishinomaki.html


こうして、改めて被害状況を知った上で日和山公園に立つと、言葉が出ません。




しかし、今後初めて被災地を訪れようとするならば、

訪れた先で何が起こって、どれくらいの被害があったのか?を少しなりとも学んでから行くことを推奨します。


なぜなら、三年半の月日が経って、震災の爪あとをそのままに残すものは非常に少なくなっているからです。


参考:

「石巻市内16地点の、震災直後と2年後の風景比較」(石巻百景旧館)

http://ishinomaki-photo.blogspot.jp/2013/03/2years.html


復興が進んでいるという面もありますが、

個人的には 「全てがなくなったままで、時が止まっている」 という感じが強いです。


もちろんお店を再建し頑張っておられる商店主さんも中央やアーケードの方には多くいらっしゃいます。

けど、そのすぐ近くで時が止まったままの場所もやはり多く目に入ってくるんです。


この後訪れた南三陸町や陸前高田市はまた違う印象を受けたんですけど、

「時が止まっている」という感覚は共通してあったかなぁ・・・と思います。


中でも石巻の日和山公園から見た南浜・門脇地区の三年半後はそれを特に強く感じました。


そして、日和山公園の鳥居の前には急な階段があり、これを降りると南浜・門脇地区を歩くことが出来ます。

(先ほどの動画で、冒頭に食品工場の従業員さん達が避難されてきた階段です)


電車の乗り継ぎの都合で断念したのですが、

あの広大な空き地と化した真っ只中に立ったら、また違う思いを受けたかもしれません。




《9月8日11時33分:JR石巻駅》


140908_094743.jpg

石巻は漫画家「石ノ森章太郎」さんが青春を過ごした地。
140908_101005.jpg
石巻市役所にも石ノ森章太郎さんの描かれたイラストを使用した大きな垂れ幕が。

ちなみに、この市役所は撤退したデパートの建物をそのまま引き継いだものらしいです。

デパートの一部が市役所なのかと思ったらあの建物全部が市役所だったんですか・・・。


140908_111150.jpg
中心街でもガレキは撤去したものの建物までは再建されていない場所が所々。

ちょっと外れたところになると今ようやく解体している建物もまだありました。

明らかに建物が傾いており、海岸から離れた場所でも津波の破壊力は衰えていなかったことを見て取れました。
140908_111353.jpg
主要道路はおおむね補修されていますが、脇道に入るとまだ補修している場所も少なくありません。

歩いている途中も、補修が完了したばかりの道路で測量が行われていました。

そうやって少しずつ街を再建してきたんですね。
140908_111549.jpg
中央の商店街のお寿司屋さん。

海岸からは結構離れたこの場所でも1階部分が浸水してまうくらいの水位があったんですね。


自分の歩いている場所が水中だったのかと思うと、何とも言えない気持ちがしました。
140908_095820.jpg
駅前には仮設店舗の商店街「立町復興ふれあい商店街」が。

立ち寄りたかったんですが時間の都合でやむなく。




《9月8日13時12分:宮城県登米市・気仙沼線柳津駅》


石巻から前谷地駅で乗り換えて柳津駅に到着。
140908_131308.jpg
再びココで鉄路が途切れます。

あるはずの陸前横山駅は覆いで消されています。


ココから先はコレが「柳津駅」。
140908_132302.jpg

『BRT(バス・ラピッド・トランジット)』という方法で路線が続いています。


簡単に言うと、線路だった場所を舗装して電車の代わりにバスが走るという話し。

途中で一般の道路を走る区間もありますが、

仙石線の代行バスと違ってBRTは電車と同等の扱いです。


だから、このポールもバス停ではなく「駅」ということになります。


そして、このBRTに乗って、次は「南三陸町」に降りました。





その3 南三陸町 編 へ続く。】