文章を書く時、私はまずダラダラと書き始め、ちーっともまとまらず、全部消して2行くらいのよくわからない抽象的な表現で書いて終わり。

 

というパターンが多いんですが、今日もまさにそれで(笑)、何度も消してます。

書きたい事、残しておきたい考え、いろいろありすぎてごちゃごちゃになってしまって、「要約」ってのが国語のテストでも一番苦手だったのを今でも引きずってます。

 

 

要は、ですね(笑)

 


アムステルダムで見た、絵画のように美しい光の中に佇み、静かに視線を落とすオットー・フランクのポートレイト写真は、ただそれだけでも素晴らしい1枚だった・・・けど、歴史的背景の説明・実際の隠れ家に自らの足を踏み入れた重み・小さな天井の窓から見た新緑と青い空・”密告されて以来初めて、たったひとりで自宅に戻った”というキャプション、その全てがあの1枚を取り囲んだ時の、あの、なんていうか、破壊力?(ここにきて語彙力が残念過ぎる)
1枚の写真が、全てを吸い込み、それが私の体内に解き放たれたような感覚というか。今でもあの写真を見ると、その時の衝撃が蘇ってきます。


町田君自身が「町田樹を表現した」と言うエデンの東は、彼の歴史やその時々の背景を知る事でより一層味わい深い作品になるし、エデンだけに限らず、特に彼が自ら作り上げた作品の数々は、探究心を煽るといいますか、「知りたくなる」んですね。そして「知る」ことによって作品が深みを増して行く感覚。”個人の作品”として提示されたものを、今度は受け取った自分自身がその力で作品をさらなる高みへ持ち上げられる快感は、学ぶ楽しさの心髄とも言えるのかなと。


私はずっと理系人間だったので、国語や歴史には「なんだそれ」って感覚しかなくて。でも今考えると、とある現象の裏付けを数式で説明していく数学の証明問題だったり、身の回りの当たり前の現象を化学や物理の観点から説明出来た時の楽しさ、というのにそもそも夢中になっていたわけで。そういう部分では、文系理系・学問スポーツ関係なく、「今・目の前のもの」をより高く深いものに変化させていくという意味で、学ぶ事においてはどれも軸は同じなのかもしれない。


「学ぶ楽しさ」って、どこから生まれてくるんだろう、と考えた時、「きっかけ」というのはとても重要、でもその「きっかけ」ってのはその辺にゴロゴロ転がってるわけでもない。だからアンテナは常に伸ばしているに越した事はないし、アンテナを伸ばすこと自体も言ってしまえば「学び」であると。

あとはあれですね、「出会いに感謝」ですね。
学校の先生とか、自分がアンテナ張ってるか張ってないかに関わらず出会ってしまう人もいるわけだから。


なんかね、町田樹という人物を知ってからというもの、こうやって脳みそフル稼働で何かを深く考える、という時間が増えました。(あとはあれ、「まっちーかわいいなー」って時間も(笑))
町田沼に落ちたお陰で、最近脳内がザワザワしてます。