2017年の今日。
当時はFBだけが吐き出せる場所だった。
調停中で弁護士さんからアメブロを止められていたこともあって。
FBには「思い出」として、過去の今日書いた記事が何年分も上がってくる。
今朝は今の私に通じる記事を見つけた。
ここに転載する。
2017年6月15日
今の自分を別居前の自分と比較したとき、場面場面で丁寧に丁寧に旦那の言葉にいちいち傷ついてきたんだなということがわかった。
そして、いちいち傷つく自分を恥じて、傷つきたくない、傷つかないようにしようとした結果、 これでも旦那には愛されてるんだというとんでも方向に行ってしまったのだと理解した。
しかしながら、それは間違ったというわけではなかった。
自分の夫を信じようとするのはとても自然な心の働きである。
それが機能しない夫婦であるということが唯一の問題点だったのだ。
同じ家で生活している夫が自分を虐げているのだとして生きていくなんてことは、私は無理だってことやね。
だからこそ、幻想にしがみつく。
この家しか私の居場所はないのだからと。
そこから自分の思考で自分を動けなくさせて、そうした希望を込めた自分に都合のよい、見たくない真実から目を反らす解釈をする。
当時の自分を思い出せば、なかなかに恥ずかしい気持ちにはなるが、それこそが人間らしさだなぁとも思う。
私は被害者体質ではあったが、てゆーか今もそやろし、でもただの人間らしい人間やっただけやんけ、と思うのだ。
誤解釈や目を反らすための保身思考など、機能する場所では存分にやればええのだ。
思いやってくれているんだろうなぁ、とうっとりすればええのだ。
それは誤解釈などではなく、生きていく日々の彩りだからだ。
私は誤解釈をすることによって、歯を食いしばれるようにマウスピースをつけるという、これまたとんでも方向に行きすぎたわけだが。
それも致し方ない。
この身体、この脳、この心を駆使してそうしてきたんやもん。
私は旦那を恨んだり、許さないことを自分にさせてくよ。
いくら私がそう受け取るからだと言われたってやめないよ。
自分が飽きるまでする。
反省という名の、自己満の癖もやるよ。
引きこもるし愚痴も言うし、好きにも嫌いにもなるよ。
反省したりやめようとして自分を変えられると思うのはある意味傲慢だと思ったから。
こうして綴る今を未来の私は笑うだろう。
未来があると純真に信じて愚痴る今を。
私は今、少しだけ自分を見ることができ始めている気がする。ずっと理屈こねて無視してきたけど。
これ以上になろうとばかりしてきたけど、これ以下にもなれないのだなとわかりかけている。
それごと勘違いであるとして、それごと私なのだと妙にすっきりしている。
言葉と逆さまじゃない自分が好きだ。
そして言葉と逆さまを言う自分も好きだ。
それが私だ!
という不遜な尊大さでいばりちらしてみる。