なんか妻に言われそう。
それを微かに察知したモラハラ加害者は、不機嫌オーラを撒き散らして威圧するか、それでも踏み込まれそうになると無視をする。
それがいつも通用するから。
逃げて逃げて逃げまくる。
で、妻子に逃げられた土壇場になっても「勝手に出て行きやがって!こんな酷いことしやがって!子どもが可哀想だ!」てことになる。
モラハラで家族に出て行かれた加害者は皆、時と場所と人を変えてもスタンプで押したように一緒の発言をするのは本当に面白い現象だなと思う。
そして私は、モラハラ被害者がなぜモラハラ被害者になるのかがわかる。
モラハラ被害者が抱く、途方もないほどの意味のない希望を抱く理由がわかる。
一切の意味がなかったとわかったときの絶望をわかる。
違うとわかって出たものの、違うもので成り立たせてきた人生が一瞬にしてスッカスカになって、これで良かったのかと、これしかなかったのかと頭を掻きむしり苦しみ悶えるその時間の長さを知っている。
駅で倒れる瞬間、私は思った。
私はこれまでたくさん勉強してきて、様々な家族の歪みが引き起こす精神疾患やそれにまつわることを一般的な水準以上に知っていると自負していた。
もちろんパニック障害や過呼吸についても知っているのに、なぜ、なぜ、と思いながら倒れた。
これはそうした発作だと知っているのに、なぜ!と。
真っ直ぐに歩けない。
呼吸ができない。
ああ、私は知っているけれど、こんな発作を起こしてしまうほどに追い詰められているのだと思った。
意識や知識ではどうしようもないことが自分に起きているのだとわかった。
腹の底からモコモコと湧いてくるなんとも言えない感情?みたいなものがとても気持ち悪かった。湧いてくるたび、ああ、なにこれ!嫌だ!怖い!と泣き喚いた。
だからわかったのだ。
どれだけメカニズムがわかっても、理解をして説明できたとしても、被害者としてのメンタルが無くなるわけではないことが。
わかる、理解することと並行して、被害者の泥のように沈殿した本音や、生き方にただ寄り添う存在が必要だって。
それが私にはできるってはっきりわかってしまった。
でも今、自分はモラハラ被害者だとわかった人たちでとても生き辛いと認識している人がいるなら、そうした人たちで記憶を共有してみない?
ただ並べて、その生き方の傷がついた瞬間から癒して行こうよ。
ただ並べ合うミーティングを開催しようと思うの。
幸せになりなさい説教なんてもちろん無い。
押し付けられることは皆無。その嫌さ、めちゃくちゃ知ってるし。
私が私として今ここにいることはそういうことだと思うから、まだなーーーんも決まってないけど、ご要望あればしたいなって。
施設とか金額とかも決めてない。
けどやる価値あるから。
ま、やるって決めちゃえば、現実がついてくるだけだけどね。