自分だけの感覚。 | ■なんのこれしき■モラハラ専門カウンセラーacnです。モラハラ加害者との17年、脱出し離婚してからのこと、全て余すところなく。

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モラハラ専門カウンセラーacnです。
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ただひたすら救おうとする人とか
人の意見を全て批判と受け取る人とか
見下すことで自分を保たせる人とか
自分の正しさにこだわりすぎて
信じきるあまりに
許容を失くしてしまっている人とか

近しい存在であればあるほど
ちょっと胸につかえる出来事や言動が
気のせいであって欲しいと願う。
そして、そう感じる自分のいかに傲慢なことかと思う。
自分の裁くその視点に嫌悪する。

何が正しくてなんてことは
人の数だけ、立ち位置の数だけある。
だから一般にどうかということを出来るだけ
自分の中から排除して、自分の感覚に耳を澄ます。
自分だけが感じるちょっとした不快感が
きっと自分にとっての正しいことだと思うから。

私の描く自己像が
傍から感じる私の像と違っていても
それでも自分は弱くガラス細工のようにもろいと
言われたくはない。
そうじゃないと否定する私に対し
自覚がないからだと、あなたは本当は弱いのだと
言わなくていい。
聞きたくもない。
私の人生は私のものであって
いくら私という像を自分と重ねて
親しく思ってくれていたとしても
私はその人の人生の伏線を歩んでいるわけではない。

何を言っても、どう伝えても
「私もそうやったよ」
「いつかわかる」
「自覚がない」
「今にも折れそうに見える」
と会うたびに言われるのは嫌だ。

これは親しい関係であるほど
多分、自分で見なくする傾向がある。
ちょっとした不快感を無視する。
それは「ちょっとした不快感」だから。

でも最近では、きちんと指摘することもするようになった。
不快感を感じると直球で言うよりも
もう少し違う言い方にしたりもする。
「そう見えるかもしれないけど、そう弱くないよ。もう少し、こんな私を信じてよ」と笑って伝えたりもする。
だけどそれに被せて、
「いや、自覚がないだけ。acnは弱い。」
という会話になってしまうとき
不快感が根深くなってしまう。

弱い弱いと相手を表現することって
思いやってはくれているのだろうけど
きっと信用はしていないんだよね。
心配って、基本的に見下す行為だと
昔から考えている私にとって、
とても苦手な行為。

でもこれは私だけの感覚なので
強要はしない。
でもそれが私に降りかかるとき
きちんと避けようとする。
それを責められたって、どうしようもない。

私は相手を尊重するという意味は
相手を信用すると同じだと思っている。
いや、何でもかんでも信用するのではなく
相手が「大丈夫」だと言う言葉を
まずは受け止めるということを
親しい関係において大事にする。
それは育児にも夫婦関係にも大事なことなんだと知ったのはそんなに昔のことじゃない。

理想論だとぶった切られようと
私は今日もこのことを大真面目に信じて生きる。