私の尊敬する信田さよ子さんの著書に良くでてくる一節がある。
「自分を語る内容が変われば自分が変わる」
その説明が詳しくされていることはない。
何度も出てくるので、余程実感されたことなのだろうと思う。
私はその一説を読んで、大きく頷いてしまった。
そしてその感覚は、誰かと共有するようなものではない。
説明しようにも、きっと伝わらないのではないかと思ってしまう。
でも今日、なんとなく妹と喋っている時に「ハッ」と浮かぶものがあった。
このことが私の中に具体的に捉えられるような変化があった。
信田さんは「自分を語る内容が変わる」のを目にした時、当初は「以前は嘘をついていたのだ」と思ったそうだ。
でもそれがそうではないことを、何年もアルコール依存症やACの人とのかかわりの中でわかってきたという。
私はよく自分を語る。自分を曝け出す。
でもそれは誰かに向けたメッセージとしてではない。
自分の歴史を誰かに知ってもらいたいということが目的ではない。
ということすら、実は最近わかった。
私は「自分」を整理したかったのだ。
語ることで、自分の記憶を整理整頓していく。
そういう作業が、無自覚のうちに必要だと感じていたのかもしれない。
そして私が体験したのは、語る内容の変化。
伴って変わる自分自身だった。
それは本当に不思議な体験で、何とも形容し難い。
あえて例えるなら、小学校時代の文集を読んだような気分。
ああ、これが一番近いな。
当時、そう思っていたことが今は違う。
一方向からしか考えられなかった、白か黒かの善悪の判断だったものが、いつのまにかグレイの判断に変わるような。
こっぱずかしいような、あの感じ。
私は「被害者」の意識から抜けられない時代が長くあった。
被害者であることを確信すればするほど、自分の加害性など考えもしない。
余計なお世話をしておきながら、私は「よかれと思ってしたのに」と、被害者の立場から降りないのだ。
そもそも、自分が被害者の立場に立っているということすら意識出来てはいない。意識しないものは、変えられない。
だから自分を語れば、自分以外のみんなが悪いとなってしまうのだった。いかに自分は悲しくて苦しかったか、ということばかり話してしまう。
そういう思考では、どのような人と関わっても適度な距離感すらとれず、親密さを求めながら離れざるを得ない状態になってしまっていた。
私が劇的に変わったのは、「自分の加害性」に気付いた時。
相手にばかり変化を求める自分を自覚した時。
自分の思い通りに変化しない相手を疎ましく思い、変化しないことを愚痴る自分に気付いた時。
被害者でいる限り、誰とも本当の意味では関われないということに気付く。
自分が存在することで、自分が自分勝手に行動する事で、被害を受ける人がいるという認識があまりに希薄だったといえる。
だからこその不倫地獄だったのだと思う。
心の穴は確かに存在した。
その穴をスースーと風が吹き抜けるような感じが、なんとも言えず気持ち悪かった。
暗闇で飛んでいる蚊のような、耳障りな羽音のようだった。
でもただ闇雲に、手で追うだけでその他の策をとらずにいたのだなと、今にして思う。
そういうことを私は、自分をただひたすら日記などに書き綴ることで変わってきたのだった。
私は自分の加害性をやっと自覚した。
自分の加害性を自覚するのは、とても痛い作業だ。
ただひたすら「ごめんなさい」の感情に支配され、立ち上がれない。
そうすると見えてくる。
自分の行動言動が結果を招き寄せていたということに。
受け取る自分の物事の捉え方の歪みが、自分を不幸にさせていたのだと。
私は思う。
自分の腰を上げずに、自分が痛い思いをせずに、何の自覚もなく全ての変化を求めることって、宝くじを買わないで当選を期待するようなもの。
働かずに給料を請求するような行為。
そんなことは成り立たない。
でも被害者意識に支配されているときは、こうなる。
当選させなかった宝くじ協会が悪い、給料を払わない会社が悪い、となってしまうのだ。
「買わないからだ」「働かないからだ」なんて言ったら大変。
「だって…」「でも…」と言い訳が始まる。まだ理由が理に適っていればまだいい。でも大抵が言い訳にならないような言い訳だ。
買わなかった理由すら、誰かのせいにしてしまう。
働けない理由を、職場の誰かの理由にし、しかもその人のせいで精神に異常をきたしたなどと言う人もいる。
会話途中、都合が悪くなると「欝病なんです」という人もいる。
何の関係があるのだと心底胸糞悪くなってしまうこともある。
私は少なくとも、ACであることを理由にして、会話を切り上げたことはない。そんなことで自分をかばう行為はしたくないからだ。
そしてそんなことで免責されるようなことはないと思うからだ。
ACという言葉で私は本当に楽になれたが、それは自身の加害性を自覚した上での話しであって。
自分の加害性を自覚すればするほど、何もかもの原因を「自分が悪いから」と自分に持ってきては納得させてきた今までの苦しい自分の思考回路が、実は生育歴の中で身につけた過剰適応だった、という認識を持つことがACの自己認知だ。
それは自分の力や変化を起こそうとする気持ちが届かない領域で、自分ではどうしようも出来なかったと免責されること。
だから楽になる。
だからといって全てが免責されるわけではない。
ここの捉え方を間違うと、「親が悪い!」から先に進まなくなる。
進めない自分すら認識困難になる。
「自分にやさしく」ということの受け取り方の難しさと同じだ。
自分にやさしくするってことが、したくない自分の気持ち全てに従うことではないことと同じだ。
自由が欲しいと思ったとき、何をしてもいいのが自由ではないことと同じだ。
自分の夢があって、したいことがあったら
そのための準備が必要だし、ただ寝て待っていて叶うなんてことはない。
自分のすべきことをこなすことも、自分にやさしい行動なのだと思う。
ただ羨ましがっている人は、何かを得た人が何もせずにそれを手にしたかのように感じているから羨ましいのだ。
モデルの友人は自分を怠らない。
知らない間に色々な知識を増やしている。
自身を美しく保つことに余念がない。
だからこその「今」なのだと思う。
私だってそうだ。
ただ闇雲に文章を書いていた時期もあったが、決して「文章を書く」ことだけはやめなかった。
そのことに対してだけは、どんなことより貪欲に生きてきたからこそ今の私がある。
何かを形にする人は必ず、何らかの行動を起こしている。
羨ましがっているだけなら誰だって出来るのだ。
少々キツイかもしれないが、ある種の法則すら感じてしまう。
私は
「自分を語る内容が変われば自分が変わる」
このことを体感した。
被害者意識から抜け出せないままの私では、この内容を書くのは不可能だと思う。
そして私は今日も、自分を語る自分を見るのだろうな。