ぼくの前後に過去から未来へとのびるタイムラインがあります。

そのタイムラインにドローンのように浮かんで過去へと遡ります。

 

自分史を探る旅。

今回は中学2年の秋から波乱に満ちた正月から春にかけて、

時のドローンを飛ばします。

 

 

中1のときに家族で海に行ったときの少女はどうなったのでしょうか?

母の友人Oさんの娘R。

 

たった一度の出会いと淡い憧れを抱きつつも、

その後は会うこともありませんでした。

 

彼女の家のある多摩川ベリは、梨の名産地でした。

何度か梨狩りに行こうという話がありました。

 

瓜の皮は殿様に、梨の皮は貧乏人にむかせろということわざがあります。

梨は皮のきわが甘いので、薄くむく方がいいわけです。

それを知った僕は、ひたすら梨の皮を薄くむく練習をしていました。

いつか梨狩りに行ったときに、彼女にほめられるような皮むきができるように。

結局、梨狩りの話は立ち消えになっていました。

 

たまに別れたご主人が多摩川で釣ったという鮎をもらいました。

それまで特に鮎は好きじゃ無かったのですが、

「僕は鮎が大好きだ」と公言していました。

 

その深い理由は、誰も気づいていませんでしたがね(^-^*)

 

 

中学2年の秋が来ていました。

その頃の僕の趣味は、

熱帯魚とギターでした。

 

11月15日 午後六時頃でした。

玄関のチャイムが鳴りました。

 

ちょうど、

熱帯魚に餌をあげていた僕がいちばん玄関に近かった。

 

「はーい、どなたですか」

「Oです」

扉を開けると3人の人がいました。

 

母の友だちのOさん、

娘のRとH。

1年3ヶ月ぶりの再開でした。

この日は、妹のHちゃんの七五三のお祝いだったのです。

 

「ご挨拶だけ」

母とOさんが言葉を交わしただけで、

Oさんたちは上がることも無く帰って行きました。

 

ショートカットだった彼女は、

肩よりちょっと長めに髪を伸ばし、

ニコニコと微笑んでいました。

言葉を交わすこともありませんでした。

 

ぼくはぶっきらぼうにボソッと佇むだけ。

 

「あんな顔だったんだ」

「あんな姿だったんだ」

「あの子のために僕は梨をむく練習をしてんだ」

 

「こんばんは」とさえ言わなかった、

「元気」と微笑みかければよかったのに。

自分を責めても、実際何が出来たというのだろう。

何も出来はしないこともわかっているのに。

 

 

そのまま冬が来て、

年が明けました。

 

家族みんなに年賀状が来ていました。

互いに見せ合うとも無く見て、

Oさんから母宛に来ていることを発見しました。

一瞥しただけで住所を覚えました。

 

住所がわかったので、

彼女に年賀状を送ることは可能でした。

出そうか出すまいか、悩んで迷って、1月も後半。

 

「これって、タイミングを逃すと変だよな」

中2の僕はさんざん考えた末、

手書きの年賀状を出しました。

 

返事は来ませんでした。

しばらくはね。

 

2月中旬母に呼ばれました。

「ちょっと、いらっしゃい」

このように呼ばれるときは、だいたい何かやらかして、怒られるときでした。

 

「あなた、Rちゃんに、年賀状出したの?」

なぜか、バレバレでした。

細かい詮索は一切されませんでした。

母からのメッセージは一言だけでした。

「文通でもするつもりなら、健全なお付き合いをしなさい」

 

そして、解放されました。

 

文通?

今や死語かも知れません。

文通:手紙をやりとりすること(大辞林)。

電子メールでも無い、SNSも存在していない。

郵便を用いたコミュニケーション手段の1つですね。

 

1つのメッセージが往復するのに1週間から10日くらいかかる情報交換手段です。

利便性からはほど遠い。

じれったくて、やるせなくて、ロマンティックな交換手段。

 

便箋に万年筆で書く手紙。

丁寧に折りたたんで、封筒に入れて、

切手を貼って投函する。

書いたことありますか?

手紙を送って、

返事が来るまで一喜一憂して、

あれこれ考えを巡らして。

 

ぼくは手紙を書きました。

 

ほどなく、彼女から返事が来ました。

薄いブルーの小さめの封筒でした。

こころときめかせて開封します。

 

 

そのあとの展開は次回以降に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ずっと後で知りました。

彼女の誕生日は11月15日でした。


 

 

 

ぼくの前後に過去から未来へとのびるタイムラインがあります。

そのタイムラインにドローンのように浮かんで過去へと遡ります。

 

自分史を探る旅。

今回は小学6年から中学1年の夏の辺りへ行ってみます。

 

 

つげ義春氏の代表作の1つに

海辺の叙景」(1967年9月)があります。

ほの暗さの中に叙情性を込めたぼくの好きな作品です。

この作品を陰画とすれば今回の話のイメージは陽画となります。

 

 

6年生の夏、

母が突然運転免許を取る決心をしました。

暑い中連日教習所に通い半年近くかかって自動車運転免許を取得しました。

 

当時の免許は自動二輪が付帯していました。

後に父が取ったときには無くなっていて、

「私は家族で唯一ハーレーの大きなオートバイに乗れるのね」

と自慢げに言っていました。

 

途中挫折しそうになりつつ、ようやく手に入れた免許でした。

半年も通えば教習所でお友達も出来ます。

その中にOさんという人がいました。

 

とても気さくな人で取得した免許を生かした仕事をしていました。

昼の時間に突然家に遊びに来ることもしばしばありました。

 

休みの時に、

母と店屋物などを取ろうとしていると、

突然現れて「あ、わたしもきつねうどん、お願い」

という感じの気のおけない、ある意味傍若無人な、

ちょっと僕らの周囲にいない感じの人でした。

 

母は彼女のそんなところが、

あまり好きでは無いようでしたが、

ぼくは結構好きでした。

 

翌年、僕は中1の夏休みのこと、

例によってけだるく暑い昼下がり、

扉を開け放ってかき氷を作っていると、

Oさん来訪。

 

「いいタイミング、氷たべますか」

「氷イチゴできる」

「カルピスしか無い」

「それで、いいわ」

僕らの会話に母は傍らで笑っていました。

 

しばらく与太話をして帰り際にOさんが言いました。

「会社の保養所が取れたのよ、葉山。週末、日帰りで行こうよ。わたしが車出すから」

母はぼくの顔を見ました。

 

「いいよ」 と僕。

「じゃあ、朝、迎えに来るわ。」

そして、Oさんは疾風のように出て行きました。

去り際に「ああ、Rも連れて行くわ」と一言残して。

 

 

「R?」

「娘さんよ、あなたと同い年よ」

母がぼそっと言いました。

ちなみにOさんは、離婚していて、娘が二人とききました。

 

『娘……同い年。』

ぼくは海に行くと言ったことを激しく後悔していました。

 

同い年の女の子と一緒に海にいくだと?

冗談じゃ無いよ。

思春期で人一倍感受性の強い僕にとって、

女の子は禁忌でした。

 

それは、

憧れであり、恐れであり、夢であり、幻であり、希望であり、絶望であり、文学であり、007であり、理想であり、解諾であり、否定であり、プラスであり、マイナスであり、

もう訳の分からないカオスでありました。

 

週末まで、

期待と不安を紛らわすため、

一日中自転車で走り続けていました。

 

 

当日の初対面は覚えていません。

無意識が蓋をしているようです。

 

 

車はいつの間にか、鎌倉を経て逗子に向かう海岸線を走っていました。

ショートカットの小柄な彼女は僕と一緒に後部座席に座っていたような。。。

 

歌を歌ったリ、

運転しているお母さんにおせんべを食べさせて上げたり、

Oさん同様、天真爛漫な少女でした。

 

「1週間」という歌でした。

〽月曜日に市場へ出かけ、針と糸を買ってきた

テュリャ テュリャ テュリャ ・・・・・

というやつね。

(意味深な歌であることは、後年知りましたが、当時の中1の考え及ぶことに非ず)

 

やがて保養所について、

昼をたべ、着替えて、海辺へ。

 

こじんまりとしたビーチで過ごす夏の午後でした。

お互いスクール水着ですし、砂遊びしたり、たまに泳いだり。

平和な午後でした。

 

彼女は海で泳ぐのはあまり得意では無いようでした。

ぼくはいとこが鎌倉と茅ヶ崎にいて小さい頃から海には慣れていました。

海岸線に沿って泳いで見せたのを覚えています。

 

高校生になって、

友人が見せてくれたつげ義春氏の「海辺の叙景」に重なりました。

僕も彼女もすこぶる元気で病的なところはなかったし、

お天気も絵に描いたような夏の日でしたけど、

心情風景を思い出すと、「海辺の叙景」 でした。

 

ぼくにとって、

海辺の情景 ですね。

 

つげの作品はラストシーンで彼女に

「あなた すてきよ」と言わせています。

 

現実は、

毒の無いクラゲを捕まえて彼女の見せたら、

「気持ち悪い、捨てちゃいなよ」

せっかくヒドロ中綱のお話をしてあげようと思ったのに、

残念でしたが、しなくて良かった?

(現在は刺胞動物門、当時は腔腸動物門だったような……)

 

 

夕焼けに染まるころ、

小坪のトンネルを抜けて材木座海岸を見下ろす道。

その後も何度も通った道です。

でも、中1の夏の夕焼けが一番こころに染みる想いがします。

 

暗くなる頃Oさんの家に帰着。

きわめてあっさりと、

「(^o^)/~、バイバイ」

 

そこから僕の家は、15分くらいでした。

夜道でしたが、たった1度で道筋は覚えてしまいました。

自転車少年の僕の縄張りはハンパじゃなかった(^-^*)

 

 

次の日から、

なんとなく切ない感じの毎日です。

 

なにもない空間に、

彼女のイメージが投影されます。

 

静かだと、

笑い声や、歌声が聞こえます。

 

もっとあんなことこんなこと、

話したりしたり、すればよかった。

 

幻覚と幻聴、妄想。

まさに統合失調症の陽性症状です。

別名、恋ともいいますね。

 

中1の僕は、

恋に陥ったのでしょうか?

 

そう、

この一夏の出会いは、

僕の女性観、人生観を決定づける出会いであったことは確かなのです。

 

次に僕が彼女と会うのは、

中2の11月となります。

 

じょじょにお話しします。

 

 

 

タイムラインの上から見るとぼくの人生で、

本との関わりはとても目立っています。

 

すでに書いたことと重複する部分もあるのですが、

どうしてももうちょっと書かせてくださいm(__)m

小学高学年~中学の頃です。

 

 

いとこの家の前に本屋があって、

「子供の科学」という月刊誌を買ったことがありました。

すごく気に入って何度も読み返しました。


当時 家に本屋が出入りしていたので、

月刊誌「少年」は定期購読していました。

鉄腕アトム、鉄人28号などが連載されていました。

本屋さんが御用聞きに来ていた時代があったのです。


「子供の科学」 を毎月読み始めたのは4年生の時でした。

小学高学年から中学生向きの内容でしたが、十分理解できました。

特集記事やラジオ工作など興味深い内容でした。

長じて電子部品などを抵抗なく秋葉原に求めに行く基礎を作ってくれたと思います。

少年の光文社代理部から通販でいろいろな商品を買いました。

通販の草分けですね。

タイム・ライフ社やリーダースダイジェストの数々の企画ものに憧れて、

いくつも予約注文した刷り込みの影響は、

いまだにデ・アゴスティーニなどに引き継がれてしまっていますね。

なかでもタイム・ライフのライフ・ネーチュア・ライブラリーのシリーズに夢中になり、
全巻を購入しました。
当時 大好きだった世界の爬虫類がヴィヴィッドにみられるのは、
本シリーズの Reptiles  をおいて無かったでしょう。
巻末の参考文献も魅力的でした。


爬虫類、両生類、哺乳類なんて、英語の先生も知らない単語でした。
当然 ぼくは調べて覚えました。
その後の人生ではほとんど、使用していないなぁ。
amphibian=両生類なんて日本語でもまず使いませんね。

中1の頃には、
欲しい本は書店に注文して取り寄せてもらえることを覚えてしまいました。
小学校の頃は母に頼んで注文してもらっていたのですが、
中学生以降は全て自分でできることを知ったのです。

小学生の頃に注文してもらった本は今でも覚えていてます。
「君たちも科学者になれる」という本でした。

小学4年生の愛読書は
「4年の理科」「5年の理科」「6年の理科」 という参考書でした。
なかでも「6年の理科」のセロファン綴じ込みの人体解剖図がお気に入りでした。

本屋にない本を注文するにあたって、
出版社で在庫確認することも覚えました
営業部に電話して尋ねるんです。


最初に完璧なコレクションを作ったのは、
北杜夫氏の著作でした。
当時 出版されていた全著作を古書を含めて揃えるには、
3年くらいかかったと思います。

絶版ものを手に入れたり結構大変な作業でした。

「どくとるマンボウ航海記(新著文庫)」から入り、
二冊目は冬樹社の「牧神の午後」でした。
いかにマニアックな蒐集がおわかりいただけるでしょうか。


氏の作品でいちばんのお気に入りは”谿間にて”という作品です。

みずみずしい感性で書かれたこの作品は、

昆虫採集の物語なのですが生物に対する感受性を色濃く残す作品であり、

当時のぼくのこころと深く感応し合ったのだと思います。

当時 北氏の本は、新潮社か中央公論社から出ていました。
絶版になっているものも多かったので、
当時九段の役所勤めだった叔父につきあってもらい、

初めて神田 神保町に行きました。


神保町の洗礼を受けたわけですが、
この古書街にさえくれば、
どんな本でも手に入るという幻想は打ち砕かれました。


探している本は、めったに見つからない。

そして、
本というものが想像以上の数 存在していることを
改めて認識しました。

ぼくが欲しい北氏の本は古書店にはありませんでした。
古書でなければ新本で探そう。
迷うことなく、新潮社に向かいました。


受付嬢は中学生の生意気な要求に応じてくれたのです。

ぼくは五冊以上の北杜夫の本を注文しました。
強心臓と快く受付で注文に応じてくれた古き良き時代の話です。

 

かくしてパンドラの箱は開いてしまいました。

いったいいくつのパンドラの箱を開いたことでしょう。

【現在のわが書斎の惨状のごく一部。蔵書は45000を超えています】

 

その頃、
どうしても読みたい本がありました。
例のライフ・ネーチュア・ライブラリー「爬虫類」  巻末参考文献に出ていた
E.H.Corbert ”Dinosaurs : there discovery and their world” E.P.Dutton Pub.
という本でした。
いうまでもなく洋書です。

ろくに英語もできないぼくは、

しかし迷うことなく電話帳を紐解き、
洋書代理店をダイヤルしました。
 

いつもの出版社にかける調子で、
上記の本の在庫の有無を尋ねたのです。


思えば、厚顔無恥の極致だ。

世界中の本が集まる洋書代理店に、
そこらの本屋に在庫確認をするように洋書の有無を訪ねたのだから。

幸い親切な営業の方でした。
いろいろと教えてくれました。

アメリカの出版社でダットンは有名だったため、
カタログを調べてくれて、3−4ヶ月で入手できると教えてもらいました。
当時は固定相場制で1ドルは¥360。
本書は¥4400位だったと思います。

「お年玉を使おう」と思い、
母の了解を得て、注文しました。

数ヶ月後本は来ました。
ハードカバーの分厚い洋書でした。
紙の手触りも違い、独特の香りがしました。
 

これが、アメリカの匂いなんだと思い、胸が高まりました。

さて、中学2年の手におえたのでしょうか。
題名だけは理解できました。
「恐竜:その発見とかれらの世界」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
本書はその後20年近く経って、早川書房から翻訳が出た。

もちろん買った。
「恐竜の発見」 (ハヤカワ文庫NF)
持っているのは、ハードカバーだが、今や文庫になっている(絶版かな)

 


注記:

好きな本を好きなだけ買える環境にあるように思われるかも知れません。

それは、違います。

月の小遣いは50円~200でした。

ひたすら貯めました。中学は昼にパン代をもらえたのですが、ほとんど食べずにいました。

食欲よりも知識欲が勝っていたのでしょうか。