先日、コロナ陽性になり、しばらく自宅療養生活を送っておりました。

 

今は仕事にも復帰したのですが、まだ嗅覚、味覚が前のようにもどっておらず、

世界と自分の間にベールがかかっているような、なんだか不思議な感覚。

 

世界の見え方も違っていて、この感覚がちょっと面白いので、書き留めておこうかなと思います。

 

で、コロナはどうだったかというと、

まず、のどの痛みと39度の熱がでて、すぐにPCR検査をうけまして、

翌日に陽性と判明。

 

最初は子供の頃によくかかった扁桃腺炎のような感じで、

身体は多少だるいけれど頭も動くし、

陽性判定を受けた日にビジェイさんの最後のマニュアルの講座があったのですが、

参加できるほどでした。

一応解熱剤を飲んで。

 

熱がでた夜中は、数年ぶりの久しぶりの発熱で、

えーーっと、水分とらないと~、冷えピタあったかな・・・と

対処するのに頭がいっぱいで、

その後に、そうだ身体の症状もいつもの赦しと同じだなと思い出し、

祈って聖霊に助けを求めました。

 

身体の苦しみも、心が原因だ、という気持ではいました。

 

今回、ビジェイさんの講座でクローズアップされていたのが、

私は永遠のいのちか?それとも死すべき存在か?というところでした。

 

最初は結構早くコロナの症状もおさまるかも・・・と思っていたのですが、

講座が終わった夜、のどの痛みがどんどんひどくなって、

つばを飲み込むたけで痛くてしょうがない状態に(>_<)

眠れないし、熱もまた上がりました。

 

それが収まると、今度は咳がとまらくなって、

激しく咳き込むと、息が吸えなくなって一瞬パニックになりそうになったり・・・。

 

咳が収まり熱も下がったら、また急に悪寒がして高熱になったり。

結局熱が下がるまで一週間くらいかかりました。

 

熱が下がっても、今度は味覚、嗅覚障害になり、

味がないだけではなくて、口の中に入ったご飯が異物に感じて、飲み込むのがなんか嫌な感じ。

まるでゴムを飲み込んでいるみたいで、食欲がまったくわかず・・・。

 

一体これまで、白飯をどうして食べ物だと認識していたのだろうか?とさえ思いました(笑)

 

その最中、奇跡のコースのレッスンや言葉を思い出して祈ったり、

シンディ・レナードさんの「健康と幸せのコース」を読んだりしました。

 

高熱の最中は、なんとかこれを↓を思い出すのが精いっぱいあせる

 

私が、外側のなにかに傷つけられたり攻撃される存在ではなく、

決して傷つくことのない神の子だということを思い出させてくださいお願い

 

身体がしんどい時は、身体の感覚が現実に思えてしまうし、

病気が外から自分を脅かすもののように感じてしまう。

かろうじて、できることは祈ることだけ。

 

これまで、死ぬこと自体は怖いと思っていなかったのですが、

「死はある」という信念が、がっつりビックリマーク山ほどビックリマーク強烈にビックリマークあったということに気づきました。

 

「私は身体」と思った時点で、「肉体=死すべきもの」ということですよね。

 

息ができなかった時は、このまま苦しんで死んじゃうかもーーあせるとか、

自分がこれからもっと年をとって身体が弱って病気になったらもっともっとツライことになるあせるとか

いろんな考えが恐怖感と共に浮かんでくるのを見て、

「死」をこれほどまでに信じているんだなと思ったのでした。

その都度、気づいては聖霊に委ねて訂正をお願いしました。

 

一方、コースの仲間に祈ってもらってから、

身体が苦痛を感じている間も、

心がどこかほどけているような感じもあって、

かすかに至福感も同時にあるような感覚でした。

(ありがとうございますハート

 

自宅療養期間の後も数日休みをもらって、仕事へ復帰しました。

すぐには仕事ができる感じじゃなくて、身体がヨレヨレショック

 

その数日、ゆっくり身体を回復させる間がちょっと不思議な感覚だったのです。

 

一言で表すと、思考が働かない状態。

 

身体はヨレヨレしているし、頭は全然働かないし、

家事とか目の前のやるべきことを、やろうという気力が起きないんです。

 

ところが!

自分でやろう、と考えないのに、身体は家事をやったり自然に動きだしていて、

動いている自分をちょっと離れて見ている感覚。

これまで、自分が考えてあれこれやっていると思っていたけれど、

本当に違ったんだ!という気づき。

 

起こる出来事を見て、思考とか、ざわざわすることも起きるけれど、

ああ、そうなんだな・・・・。

と、それだけで、それに対してあれこれ考えが起こらない。

 

いつもなら、この考えは間違いだから赦そう、なんて思っていたのですが、

赦す必要もないような、流れていくのを見ているような感覚。

 

目に映る出来事や、思考に対して、「わざわざ!」思考することをしなくていいという感じだったんです。

 

これまでは、目の前にあるものに対してアレコレ考え、

その考えに対してまた「わざわざ」考えて、

すごくエネルギーを使っていたのだなと感じたのでした。

 

逆にいうと、体力がなさすぎて、思考することに向けるエネルギーがなかったのかもしれませんがほっこり

 

起こるまま、あるがままでいいんだと思える。

そこに何も問題を感じない。

ジャッジの思考が湧いてきても、それに問題を感じないで流れていくのを見ている。

 

そんな感覚でした。

 

同居の次男が濃厚接触者で仕事を休んでいたのですが、

最初こそいろいろ助けてくれましたが、

数日後からはほとんど家の事を全くやらず、

台所を見るたびに、洗っていないお茶碗の山・・・。

 

前なら、こんなときぐらい手伝えよ~~ムキーと一度怒って赦す場面ですが、

今回は、考える前に身体が動いてお茶碗を洗っている。

 

洗ってくれたらいいのに・・・。

という思考が起きたら、

 

相手のことはわからない。

私のことだってわからない。

 

なぜ次男がお茶碗を洗わないかという理由は全くわからないし、

わからなくていいし、

今目の前にあるのが事実だからそれでいいんだ。

 

という淡々さ。

その思考も全部、淡々と流れていくのを眺めている感じ。

 

これでいいのだろうか?

という思考もやってきたのですが、

 

その時にはコースのことが自然に浮かんできて、

そもそも私には何も判断はできない。

私はわからないけれど、すべてを知っている聖霊に委ねます。

だから、大丈夫。

 

そう思ったら、その疑問も消えていきました。

 

自分の考えだけが、本当に問題なんだなと思ったのでした。

 

この感覚も身体の回復と共に変化しつつあります。

また、療養期間に様々な思いが噴出してきましたが、

それはまた。

 

つづく・・・。