私は仕事で、毎日5、60人の方と話をするのですが、
聖霊に任せながら、光を見せてほしいと思ってやっていると、
最初の頃に比べると、今は本当に平和な気持ちで過ごしています。
でも、時々は、赦しの機会もやってきます。
先日はなかなか強烈な赦しの機会がありました。
私の仕事は、受付業務なので、お客さんからは自分の希望が通らないと
こちらの業務内容に文句や苦情を言われることもあるし、
時には怒るお客さんもいます。
(そんな時は、まず聖霊助けて~~)
その日はちょっと違っていました。
突如相手のお客さんが猛烈に怒りだしたのです。
それがいつもと違うのは、業務内容に対して腹を立てているようではあるのですが、
言葉としては、私個人に対しての攻撃というものでした。
私に対して、すごい敵意と憎悪を向けられて、
言葉として攻撃の矢が刺さってくるような感じで。
気がつくと、手が震えていました。。。
なんとかその受付は終わったのですが、
あからさまに他人から向けられる攻撃に、
なかなか動揺が収まらず
そんな時に、様子を察知してくれた上司が、
大変だったね、ちょっと休憩してきたらいいよ、
と言ってくれて、ホッとして思いがけずポロっと涙がでてきて
急いでトイレに行きました。
(アラフィフのくせにこの程度の事で泣くって、
はずかし~~~! byエゴ ←無視です)
そして一人になって聖霊に祈りました。
私は、あのお客さんを攻撃するひどい人間だと思いたくないです。
どうか私たちの心を癒してください。
兄弟の本当の姿を見せてください。
私たちが一緒に癒されますように。
これまでなら、神の祭壇で、
コノヤローと怒りを吐かずにはいられなかったのですが
この時は、すぐにそう祈れました。(祭壇で叫んでもいいけどね)
そう祈ることができたということは、罪悪感が取り消されてきたのかも~~。
私、ありがとう~~~(と自分によしよしヾ(・ω・`))
祈るとだんだん落ち着いてきます。
そうすると、相手が愛を求めて叫んでいる姿に見えてきました。
私が動揺したのは、怒りなのか恐怖なのかもわからなかったのですが、
相手の攻撃性の下に悲しみがすごく感じられてきて、
祈りながらもしばらく涙が出てきました。
一つの心だから、私たちの悲しみなのだなと。
私は自分を絶対に被害者にしたくない。
私たちが傷つくことのない神の子だということを受け取らせてほしい、
私たちが共に癒されるようにと祈って、
仕事に戻りました。
その後は普通に仕事をしたのですが、
面白いことに、今度は
めちゃめちゃ褒められて、感謝してくれるお客さんに当たったり、
さっきの会話の録音を聞いた上司からは、えりぃさんは悪くない、
よく我慢してくれてありがとう、とメールが届いて、
むしろ幸せな気持ちに。
赦し、祈ると、最終的には、相手も私もいない、
何も起きておらず、罪はない。
ずっと私たちは神の子としてひとつの光だという感覚が甦ってきます。
ただ今回は、思い出してはまた少し動揺感が湧いてきて、
何度か赦しました。
動揺しているストーリーを離れて、
痛みや恐れというラベルを剥がして、
身体感覚だけになり、それを聖霊に委ね、任せていくと、
愛だけの満たされた感覚が戻ってきます。
愛に対する障壁を溶かしていくような感じです。
落ちついてから、いろいろ思うことがありました。
それが「被害者にならずにはいられない衝動」
何か動揺する出来事があると、
最初は被害者として感じたり、
あるいはニュース等を見て動揺した時は、
被害者側の視点に立っていることが
私は多いんです。
何としても自分を被害者にしておきたい、
そのために自分を攻撃する相手を必要としている。
そして、あなたが悪いのよ!と言いたい。
その衝動が本当にあるんだなと感じました。
で、エゴの心は二元が基本なので、
被害者でありたいというのは、実は
自分こそが加害者である
と無意識に思い込んでいるということ。
加害者である罪悪感から逃れたいからこそ、
加害者を外につくり、自分を被害者にしたいわけです。
その衝動が常にあるように感じます。
で、加害者であると思っているのはわかったけれど、
そもそも一体誰に何をやったの?
ってところなんですが・・・
神に対してとんでもない罪を犯した
ってことなんですよね。
神を攻撃した。神を殺したくらいの罪を無意識に感じている。
コースを学んでいると、そんなことはやっていないし、
そもそも神と離れる、攻撃するなんて不可能だと書かれています。
だから、何も起きていないことなのに、
やったと思って、すっごい罪悪感を感じている。
すっごく変なこと、しかも意味のないことを
やっているんですよね。無意識に。
その単なる思い込み、間違いを聖霊に取り消してもらう必要があるんですよね。
このとんでもない罪悪感のせいで
で、そもそも神と分離したのかしていないのか
ってところが曖昧にされているんですね。
その内側の罪悪感から衝動的にでてくくるのが、
攻撃と防御、被害者と加害者という投影のストーリー。
例えば、道を歩いていても、あれこれジャッジが浮かんできたりして、
これは立派な攻撃なんですよね。
最近、何かを見てジャッジした時は、
ああ、私は自分を神を攻撃した罪人だと思っているんだな~~と
罪悪感を取り消してほしいと聖霊にお願いしています。
そして、私たちの本当の姿(光)を見せてほしいと祈っています
今回の仕事での出来事は、被害者でいたいという必要性やその衝動を
改めて聖霊と共に見つめて赦す機会になりました。
私は被害者だ
↓
なぜなら
被害者でいる必要がある
↓
実は、本当は私こそが加害者である罪人だから
そこから逃れたい
↓
私は神を攻撃し分離した。トンデモナイ罪がある。
↓
神から離れたことなどない。
その罪悪感は単なる間違い
↓
聖霊に訂正をお願いする
↓
分離はしたことがない。
ずっと不変であり、完全な神の子だ
私の場合、思考のプロセスをすっきりするのが
助けになるので、まとめてみました。
突然の出来事には動揺してしまいますが、
すぐに赦せない時、
あるいは赦したいと思えない時は、
それを神の祭壇で叫んでいると必ず落ち着くし、
落ちついてからは聖霊の思考が戻ってきます。
私の見方が間違っています。
私の意見を取り下げます。
今ここで光を見せてほしい。
そう祈れます。
その祈りに聖霊は必ず応えてくれます。
世界はない。愛だけがある~~~~
感謝~~~~