このブログで、御父(神)の祭壇で叫ぶ、とよく書いていますが、

先日ジーザス女子会2で話を振られて少し話してから、
改めて御父の祭壇で叫ぶってなんだろう?と頭の中を整理しています。

 

これは2018年に書いたもの↓

 


なんといっても、奇跡のコースって、
最初はなんかふわっとしたところから始まりますよね。
ってか、私はそうでした。

なんとなくそうらしい

わからないなりにやってみる

やったらわかる

より理解しやすくなる

というサイクルを繰り返しながら
理解と実践がだんだん深まるプロセス
のように私には感じられます。

だからこそ、途中で基本的なことに疑問が湧いて
(例えば、奇跡ってなに?赦しってなに?という疑問)
むしろその時こそ、わかっていなかったことがわかる
ような気がします。

祭壇で叫ぶことはすでに日常で普通のことになっているので、
逆に説明しにくくて、自分の頭も整理しておこうと思い
聖霊に教えて♡とお願いしました。
あくまで現時点での自分の理解をまとめておこうかと思います。


神の祭壇で叫ぶとは、一言であらわすと
「闇を光にもっていくこと」

そうすることで、愛を思い出すこと。
実感としては、何をしても、どんなことを言っても

私は神から愛されている
そのままで愛されている
赦されている

ことを実感するプロセスだと思います。


テキストにはこう書かれています。

苦しみを聖霊の視界から隠すことなく、喜んで聖霊のところへもっていきなさい。
あなたのすべての傷を聖霊の永遠なる正気の前に置き、聖霊にあなたを癒してもらいなさい。
傷みのある箇所を一つでも聖霊の光から隠されたままに放置してはならない。
あなたが明るみに出すことを恐れているような考えがないかどうか、注意深く自分の心の中を探しなさい。
聖霊は、あなたが自分を傷つけるために保ってきた卑小な考えの一つひとつを癒し、それらから卑小さを洗い流して、神の偉大さへと復帰させるからである。
(T13.Ⅲ.7:3 奇跡講座 中央アート出版社)




もちろん最初はなかなか愛されているとハッキリ思えないけれど、
だんだんとやっているとわかってきました。
愛だけが実在だから、それ以外はなくなっていくんです。


で、大事なのは「愛」の方。

つい、無駄にやる気のある私は(笑)、
よし!闇を光に持って行くのね!と闇にばかりフォーカスしたくなる時もありました。
これでは、祭壇で叫ぶことが目的になっちゃう。

(なまはげ状態になるからね。悪い子いねえがーーって(笑) by ビジェイさん)


今回整理していて、神の祭壇で叫ぶ前に必要なことがあると気付いたんです。

それが↓の大前提をほんのかすかでも受け入れること。

神は愛、らしい。
神は決して咎めない、らしい。
神は私がどんなことをしていても赦して愛してくれる、らしい。
私も本当は神を愛している、らしい。
御父の祭壇では、愛以外のものは消えていく、らしい。

疑問や不信の方が勝っていても、聖霊への信頼がほんの少しでもあること。
ほんの小さな隙間だけ聖霊に開けておくだけでいい。

そして、やってみることで信頼ができていくし、
愛されていることを受け取り、実感していきます。


で、この聖霊への信頼、あるいはつながりというのは、
奇跡のコースを学んでいるかどうかに関わりなく、
みんな何かしら体験しているのではないかな~と思うんですよね。

聖霊とは天国の記憶であり、本来の私たちでもあるので。

テキストにもこうあります。

No one has ever lived who has not experienced some light and some thing.
いまだかつて、誰ひとりとして、何らかの光や何らかの物事をほんの少しも経験したことがない者が生きたためしなどないからです。

(There is no spoonさんのHPより)


奇跡のコースを学ぶ方なら、きっと聖霊とつながる体験がいろいろありそうですが、
どのように聖霊に導かれ、聖霊を信頼し、神を愛だと思えるようになったのか?いろんな人に聞いてみたいなーと思います。(すごく面白そう♪)

私自身も、振り返るとずっと聖霊に働きかけられていたのを感じます。
具体的に「神」という言葉を受け入れられるようになったのは、
コースに出会う数年前で、その頃から内なる神聖とつながることを
意識的にやるようになりました。

その時のある体験を書いてみたいと思います。

つづく

 


昨日は、朝の西の空にまだ丸い月が見えました。寒い~~。