日常の中には、赦しの機会がいろいろありますが、
小さな「ちっ」も見逃さずにいたいなと思ってます。


数日前のことですが、仕事へ行くために
地下鉄を待っている時でした。

ホームで大声で携帯で話している女性がいて、
その声が結構響き渡っていました。

内容は、誰かの悪口。

嫌でも耳に入ってきます。


一瞬、かすかに不快な気持ちが湧きおこりました。

見過ごしてしまいそうな、かすかなものでしたが、
そう感じていることが間違いなので、
すぐに聖霊に助けを求めました。

不快な気持ちとは、

あなたのせいで、私は気分が悪くなったのよという攻撃。

私から平安を奪ったのはあなた、あなたのせいよ!と言っていることです。

私は、本当は神の子だから、平安そのもの。
私から平安は奪われることはないはず。

聖霊に、この間違いを取り消してほしいとお願いしました。
私たちの本当の姿を見せてほしいと。

このストーリーは、私たちが捏造したもの。
罪と攻撃をもとにした幻想です。

祈っていると、心は平安になり、
私たちとは神に創造されたままの無垢なる存在だ

という感覚が拡がっていきます。

そうなると、大声で悪口を言っていた女性は、
私に救済を差し出してくれた兄弟で、
真実を思い出させてくれる神の使者です。


平安な気持ちで職場に行き、その日は一日平安の中で仕事をしました。


その日は仕事の後、用事があってショッピングセンターへ行きました。
用事を終わらせて駐車場から出ると、

前に走っていた車がすごいノロノロ運転。

片側一車線の道路なので、その後について行きました。
先にある信号機は混んでいて、なかなか一度に通過できないので、
他の車がほとんど通らない脇道に入ろうとしたところ、
その車も曲がってしまって、またしばらくノロノロ運転の後をついていくことに。

(ちなみに私は特にスピードを出す方ではないです。慎重派・笑)

やっと広い通りに出て、その車を追い越したところ、
次の信号が赤で追いつかれました。
青になって走り出し、その車と離れたかと思うと、
また次の赤信号で追いつかれ・・・というのが
わざとらしく3回くらい続きました。

なんか、自分がバカみたいなことをやっているような気がして、
なんか、イライラするーーと思ったのでした。

でもイライラしているのは、私が間違った見方をしているのだとはわかるので、
聖霊の見方で見せてくださいと祈りながら運転をしていました。

とうとう自宅近くまで来て、その車は右折レーンに入り、

やっとここで終わりだなと思い、

「聖霊は私に何を受け取らせたいのだろう?」と問いかけました。

私はまた、ノロノロ車に平安を奪われたと感じていたんです。

聖霊に、私は欠如する存在ではなく、
神が創造されたままの完全な神の子だと思い出させてくださいと祈りました。

ノロノロ車は、私に「本当は私たちは誰か?」ということを

思い出させてくれる神の使者だなと感じられてきました。
それがあの車の運転手(兄弟)からの贈り物。

私は、右折レーンで止まっていた車に、感謝して通り過ぎました。


ちょっとした不快感も、本当は外の出来事が原因ではなくて、
心の中の解釈、罪悪感、神の子であることを忘れていることが原因。

この日は、朝いつもの地下鉄ではなく、なぜか一本遅れになったため、
どんなことが起こるのだろうと、ちょっと心が開かれていたように感じます。
いつものルーティンだったら、スマホを見たりして見過ごしていたかも。

 

この日のように、ちょっと心を開いておくって大事かも、と思いました。

通りすがりの兄弟に感謝~~。


神の国はひとりでは見つけられない。

そして、神の国そのものであるあなたは、あなた自身を一人で見つけることはできない
(T8.Ⅲ.6 奇跡講座 中央アート出版社)

 

大通りのイルミネーション。ただただ光を楽しみました♪