先々週の話です。
朝から神に祈り、家の中でも、仕事でもずっと、
聖霊とひとつであるような感覚で、
ずっと愛に包まれているようでした。
自分史上初めて、一日神を忘れないで過ごせた日で、
とても平和で満たされた気持ちでした。
夜に、そろそろ寝ようと思っていたところ、
ある記憶が蘇ってきました。
それは、数年前の仕事で問い合わせを受けた時のこと。
会社のお客さんでもなく、
その会社のサービスをこれから受けたいというのでもなく、
正直それを知ってどうするつもり?と思うような、
ちょっとマニアックな内容の問い合わせでした。
当時は特に何も感じずに、いろいろ調べて、
なかなか手間と時間がかかって回答したのでした。
ところが、その記憶が出てくると、
問い合わせをしてきた方に対して、
いきなりものすごい怒りが湧いてきました。
すぐに御父(神)の祭壇に上がって、
出てくる思いを叫びました。
怒りと、憎悪が大爆発!
あまりの感情の強烈さに、
逆に記憶の出来事と、怒りは関係がないとはっきりわかりました。
けれども、その感情がものすごかったんです。
マグマが噴出するかのような感情、暴力的な殺意の爆発。
突然わけわらからずにやってきた大噴火に、
ただただ、その感情を聖霊に捧げるつもりで、
祭壇の上で叫びまくりました。
それしかできませんでした。
静かに祈るなんて、とてもできないほど。
もし、御父の祭壇を知らなかったら
一体どうやって対処したのだろう・・??と思えました。
ところが、叫んでいたらパタッと怒りと憎悪が消えました。
時間にして5分もかかっていないかも。
はい、以上。終了。
とでも言うように急になくなったのです。
そして、その時感じたのは、怒りも、憎悪も
本当に根拠のないものなのだ!ということ。
奇跡のコースには、分離もなければ、
罪悪感も実在しないと書かれていますが、
ああ、憎悪の原因は本当にないんだなと感じました。
最初は問い合わせをしてきた方への怒りとして感じられましたが、
外に世界が投影されているだけで、もともとは自己憎悪です。
でも、その自己憎悪さえも、まったく原因がなく、存在していない。
暴力的な殺意さえ、根拠はない、実在していない。
激しい感情、怒り、憎悪も、
本当に怖がらなくていいんだな~~~と思ったのでした。
それにしても、
感情が爆発していたとき、浮かんできた言葉が、
お前ごときが!ぶっ殺す!
という言葉
これは自分が自分に向けている殺意です。
最初はエゴと同一化しているので、
怒りや憎悪をただただ祭壇で叫ぶことしかできないと
自分自身では感じるのですが、
実際は、聖霊の愛を信頼して、
闇を光に持っていく、あるいは闇を聖霊の光に照らしてもらう
ということをやっているわけです。
そうすると、愛以外のものは消えていくので、
愛だけが残る。
憎悪も怒りも最初からなかったんだという
自覚が戻ってきます。
どんな殺意も、愛の中に溶け込んでいくんですね
だから、どんな殺意も、憎悪もこわくない!
終わったところから見ると、何の罪もなく見えます。
本当に、神の子でよかった~~~
誰もが神の愛し子でよかった~~
本当の自分を思い出していくと、
そのうち、憎悪ってなに??なんのこと??
って感じになるのかもしれませんね。
最終的には、赦すものなどなにもない、
となるはずのようです(まだ途中・・・)
毎朝、16章の言葉の祈りから一日をはじめるのですが、
その中の言葉が好きです。
父よ、私たちの幻想をお赦しください。
そしてあなたとの真の関係を私たちが受け入れられるように、私たちを助けてください。
その関係の中に幻想は存在せず、幻想が侵入することもありません。
私たちの聖性はあなたの聖性です。
あなたの聖性が完璧であるというのに、私たちの中に赦しを必要とするものがあり得るでしょうか。
(T16.Ⅶ.12 奇跡講座 中央アート出版社)
この祈りをしていると、神とひとつである喜びが
心に甦ってきます