先日、「神に見捨てられた」という思いに気づき赦したのですが、
後からこれを赦せてよかったと、じわじわと嬉しくなったことがありました。

きっかけは、仕事での些細な出来事で、
最初に感じていたのは、それとは全く違う思い。

聖霊と共に見つめていたら、「神に見捨てられた」という
信念に気づき、聖霊に訂正をお願いしたのでした。


最近は仕事中も、聖霊と共に平安でいることが基本形になっていて、
その分、エゴに気づきやすくなっています。

先日、仕事で苦情に発展しそうな電話を受け、
もともとは私の間違えではなかったのですが、
私が悪かったことにされそうだ!と心がざわざわしました。

結局、何事もなく終わったのですが、
そのザワザワ感が、出来事に見合わない強さで、
しかも、終わったのに不快感がなかなか消えないんです。

そこで、御父の祭壇で感じたことを全部叫んでみたり、
ノートに書き出して、思っていること、感じていることを
そのまま正直に、隠さず出しました。

闇を光に持って行くんですね。どうせなら、根こそぎ(≧▽≦)


すると、感情的なものはどんどん消えていくので、
その下にある、考えや信念が見えてきます。

そこで見えたのが、
「私は正しくやらなければならない!」という強烈な信念。

ほとんど脅迫か!?というくらい、
やれ、できていなければならない!だの
正しくなければ大変だ!だの、
頭の中のエゴの声は、大音量で、いつも叫び続けています。

ちょっと失敗しようものなら、いや、失敗していなくても
できていない!と重箱の隅をつつく。

何かをやろうと思いついた時に
最もブレーキをかけるのもこの信念。

何度も赦してきたのに、まだこのエゴの声を信じては、
できていない自分を責めて、罪悪感を持つパターンが続いているように感じました。

この罪悪感の感情や体感がなかなか痛いんですよね~(>_<)


そこで、自問してみました。

「じゃあ、正しくやらないとどうなるの?」

周りとうまくやっていくことができなくなる
生きていけなくなる
孤独になって、惨めになる・・・etc。

感じることを言葉にしていくと、
ポンと、ある言葉がでてきました。


ちゃんとやらないと見捨てられる!!!


見捨てられるのを恐怖している子が

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルと震えているのを感じました。


これまで、もしかして間違ったかも?とか
ちゃんとできただろうか?と考えた時に、
その内容と見合わないような恐怖感を感じることが結構あったのですが、
その正体がこのガクブル子さんだったのか!

これほどまでに恐怖におののいているのか!

と思いました。

今まではここまでの恐怖を見ることができませんでした。

これほど恐怖しているからこそ、見捨てられないために、
あれやら、これやらしなければイケナイ!
というエゴの声のロボットだったのだと見えてきました。


その時は、ものすごい恐怖感が湧いてきて、
(ガクブル子さんと同一化しているので・・・)
ただただ、御父の祭壇でそれを叫びました。

見捨てられるのが怖いー!!と。


そうしていると、だんだん落ち着いてきて、
私は一体誰に見捨てられると思っているんだろう?と
考えると、神に見捨てられるのが怖いということに
思い当たるんですよね。
すべての関係は神との関係だから。

この辺は、コースを知的に学ぶことが助けになります。

そこで、今度は神の祭壇に上がり、

神に見捨てられるのが怖い!と叫びました。


最近私にとっては、御父の祭壇で叫ぶことは、
神に愛されていること、赦されることを知りながら
神に抱かれつつ、闇に隠してきたエゴの思いを出す、
という感じになっています。

どんどんエゴの思いが取り消されていくと、
神とひとつの神の子が、見捨てられる訳ないよね・・・
という気持になりました。

じゃあなんで、神に見捨てられると、
あんなに強烈に恐怖におののいていたのだろう?
という疑問が湧いてきて、
聖霊に教えてもらえるようにお願いしました。


そうしていると、全体が見えてきました。


神に見捨てられた 

巨大な欠乏を感じる

その欠乏をなんとか満たしたい(神の代替を探す)

欠乏を満たすために、これをしろ!あれをすべき!とエゴがささやく(ほぼ脅し)

エゴの言う通りうまくやると、満たされる(一時的)
うまくできないと、満たされない→見捨てられる恐怖を感じる


「見捨てられるのが怖い」という恐怖感の知覚で隠していたものは、

「神に見捨てられた」という信念。


つまり神との分離の信念です。


そこで神の祭壇で、


御父に見捨てられたーーー!!


と叫びました。


その時、私の頭の中にこんなイメージが浮かんできました。


大好きな御父の胸に飛びこんで、

御父にしがみつきながら、

私は御父に見捨てられた!!

と叫んでいる私。


いや、御父見捨ててないし。

見捨てられていたら、しがみつけないし。

今、御父に包まれているし・・・・・(笑)



え?アタシ、なにやっているんだ??

殆どギャグ?


(≧▽≦)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

と正気が戻ってきました。



神に見捨てられてなどいない

神と分離などしていない

今もずっと愛されて、赦されている

神とひとつである


その一体の感覚を、笑いながら思い出しました。


今回、赦しの時に「見捨てられる」というワードが、

ものすごくぴったりと来て、

今までよりも深く見て行くことができたように思います。

これまで、どういう訳か自分の中で


このワードが出てきたことがありませんでした。


これは、先日ビジェイさんの講座で、あるメンバーから出てきた言葉でした。

「○○に見捨てられた」と。


この言葉が私の中で、なぜかすごく響いたんです。


結局それは、神に見捨てられたと思っていることで、

兄弟がそれを赦すのを見ていたことが、

今回の気づきと赦しにつながっているように感じました。


これまでも「正しくなければならない!」という信念を

何度も赦してきました。

でもその背後にある、神に見捨てられたという錯覚、間違いの訂正が

必要だったのだなと思います。


小さな狂った考えは、笑って赦されていくものですが、

「見捨てられるのが怖い!!」と恐怖を感じている時は、

とても笑いごととは思えず、深刻でした。



でも、「神に見捨てられた」という信念に辿り着くと、

コースを学んでいたら、ああ、単なる錯覚、間違いだとわかるんですよね。

そこがこれまではわからず、何度も何度も赦してきたことなので、
(エゴに騙されていた~~自分でやってるけど・・・)

気づけたことが本当に嬉しい。


講座から繋がる癒しに、感謝です。

一人の赦しは、やはり兄弟全体の赦しになるんですね。

 

繋がっているからラブラブ

Sさん、ありがとう~~~。

 

 

(このブログでは、神を、御父、お父様、愛と表現しています)