先月から今月にかけて、なんとなく開いたテキストで、

何度も同じ場所が出てきました。

その中で気になったのが、

「内的状況の外的映像」という言葉。

テキスト21章の序に出てきます。

投影が知覚を作っている。
見えている世界は、自分がそこに与えたもので、
自分の心の状態を証しするもの。


コースを学習していると、何度も何度も出てくることなのですが、

本当にこれを受け入れるのは、なかなか簡単ではないですよね~。


この前、何度も同じパターンが現れてきました。

それは、職場で起こった出来事で、間違いを指摘された同僚が取った反応。


「そんなこと教えてもらっていない!知らなかった!(だから私は悪くない)」
と怒るパターン。


何回か続けて形を変えて現れたので、

 

さすがにこれは「内的状況」を現わすものなのだなと思ったのでした。


でも、最初に私が感じたのは、逆ギレする人に対するちょっとした嫌悪感。

正直に言うとこんな気持ち。

知らないことがでてきたら、単に知る機会というだけなのに、

なんで怒るんだろう?なぜわざわざ人のせいにして正当化するんだろう?

責任逃れみたいで、やな感じ・・・。


最初は、私と逆ギレするあなたは違う、分離していると思いたいんですよね~。

そう思っている時点で、エゴのロボット状態です。



「あなたが教えてくれないから、私は知らなかった。
私は悪くない。間違いは私のせいじゃない。」

と逆ギレするのは、罪悪感を感じているからこそで、


罪悪感から逃れたい、だから誰かに罪を負わせる必要があると思っているから。


一方で、責任逃れするな!と、つまり、罪悪感を人になすりつけるな!とジャッジすることで、

 

罪や世界を実在化させようとしています。


聖霊の見方で見せてほしいとお願いしました。



聖霊に委ねていると、聖霊の思考が思い出されてきて、

 

原因である心に戻って行き、

何も起きていないし、だから罪はない、

私たちは神が創造されたままなんだ

という感覚が少しずつやってきます。



でも、その前に、感情的なものは

御父の祭壇で叫びます。


あんなのと私は違うんだよー。
 

正当化するなー。

とか(笑)


ここは正直ににやり  (↑これでもかなり控えめ)


感情的なものが消えると、

ああ、愛を求める叫びだったんだな~~と思えてきます。

 

さらに、過去に自分を正当化して

 

罪悪感から逃れようとしていた記憶なんかも出てきちゃったりすると、

 

逆ギレしていた同僚は、過去の私でもあった、と実感してきて

 

そうなると、なんだか真剣味(?)が急に違ってくるんです。なぜか。

 

自分の(あるいは私たちの)愛を求める叫びに見えて、

 

愛を叫んでいる私たちが、

 

愛おしい~~くラブラブ感じられてきて、

 

聖霊と共に見る、優しい気持ちになりました。

 

本当は何も起こっていない。

 

愛だけがある~~ラブ

 

感謝です~~~。

 

 

テキスト25章より

 

自分に与えられているものを活用するという選択をするとき、

彼は、それまでは怒りを正当化する手段だと思っていた状況のひとつひとつが、

愛を正当化する出来事へと変容するのを目にするだろう。(Ⅲ.6:5)

すべての誘惑を、自分に喜びをもたらすもう一つの機会として再解釈するようになるだろう。(Ⅲ.6:8)

この世界は、あなたの平安のために多くを提供でき、あなた自身の赦しを延長させるための機会に溢れている。(Ⅲ.7:8)

兄弟の誤りはすべて、助け主の業(わざ)を見るための機会以外のものにしてはならない。(Ⅲ.7)

(奇跡講座 中央アート出版社)