この世界に生きている「あなた」とは、誰だろうか。(T.4.II.11:8)

 

わたしとは何か?

ここから、この世界全体が見えてくる。

 

私とはこの身体で、身体の中に心がある。

思考は脳がやっていて、自分の行動、努力で、

成功や幸せや、生活の安定を作っていかなければならい。

このささやかな幸せをキープするために、

努力し続けなければならない。

でも、時間の経過とともに体は老いていき、

結局、大成功した人も、惨めな生活をした人も、最後は誰もが死ぬ。

 

それがエゴが教える「私」。

しかし、奇跡のコースが言うには、

この世界は実在していない、単なる夢だという。

そして本当のわたしは、この身体ではない。

すべてとひとつである永遠のものだという。

 

「神の使者」のなかの存在の秘密や、

DVD「思考の逆転」では、

どうやって今肉体だと思っている私が発生したのか?

それを、第1~4分裂として説明している。

とはいえ、それは象徴的な説明であり、

神話のようなものだとも書いてある。

 

けれども、この知識はじわじわと効いてきて、

最初はまるで夢のお話に感じられたのだが、

赦しを実践していくことで、だんだんと信じられるようになってきた。

 

簡単に私が理解している範囲で説明してみると、

 

最初にあったのは「神」だけ。永遠の愛、完全で、喜びの広がりは無限。天国。

実在するのは神だけ。対極はない。

神が自らの延長で創造するものがキリスト

    ↓

「もしも分離したら?」キリストのほんの小さな即面に現れたかのように見えた考え。(第一分裂)

    ↓

二つの選択肢ができる。・・・ここが決断の主体

エゴ(神から分離をした)

    or  

聖霊(分離はしていない→神と神の子は一つ→天国へ戻る)

    ↓

エゴを選ぶ(第二分裂)

特殊で個別とはどんなことか知りたい。

独立したい。特別な存在になりたい。

    ↓

エゴを選ぶと、聖霊という選択肢を忘れてしまう

    ↓

「罪・罪悪感・恐れ」を持つ(第三分裂)

神の子が決断の主体に戻って聖霊を選べないようにするために

罪悪感を持つようになる。

分離した!自分は罪人だ!神の罰と報復が待っている!

防衛しなければならない!と思う。

    ↓

(第四分裂)

恐ろしいほど大きな罪悪感・恥辱から逃れるため、心から逃げ出す。

無数の心へと断片化される。

知覚するものとして幻想を作り出す。

 

自分の個別性は保ちながら、それにまつわる罪は、

誰かに擦り付けて、自分は罪のない存在になろうとする。(思考の逆転より)

罪は自分の外側にある!と思う。

   ↓

物理的世界、宇宙、肉体が作りだされた。(投影された)

心から外に映された沢山の登場人物の一人、その身体と一体化して私だと思っている。

それを私の身体だと認識している。

それがこの世界で普通にわたしと思っているわたし。

 

この1~4分裂を、今まで何度も図に書いて整理してきた。

何度も書かないとわからないくらい、すぐにあいまいなって、

わたしが何なのかを忘れてしまう。

この全体が見えると、この世界で「私が!」と主張していることや、

権利や、意見や好み、私の身の上に起こること全てが、

何にも意味のないものだということがわかってくる。

 

これを受け入れられるようになってきて、

赦しがやりやすくなった。

肉体である私が、心に戻り、決断の主体まで戻って

聖霊を選ぶということなのだ。

 

全体から眺めると、つくづく不思議だなと思う。

コースを始めた時の私だと思っている私は、

夢の中の登場人物の一人で、幻のような存在だ。

分離した心が映し出した実体のないものだ。

 

その私はエゴなのに、天国にかかる梯子を

第四分裂の底辺から上ろうとしている。

 

例えていうならば、

映画の中の登場人物が、

決められたストーリーを展開している時に、

あれ?自分は本当はここにいないのではないか?

もしかして、自分は実体がなくて映し出されているんじゃないか?

と気が付き、更に映し出す元のフィルムまでたどり着いて、

更にはその元の光にまで戻っていくという、

ありえないようなことをやっているのがコースなのだ。

 

ただ、映し出されているだけの幻の私が、

映されているだけだと気が付いて、

原因に戻っていくなんて、改めて考えて見ると、

すごい!!これは奇跡としか言いようがない!

あ、それで、奇跡のコースっていうのかなあ・・。

 

今になって、奇跡のコースという名前に

納得がいったのでした照れ

(今更かい!)