コースの学びには、まず初めに徹底して自分の今までの価値観の放棄、その意欲が試されます。
それは自我が構築してきた価値観であり、文字通り自分の過去や未来の全てを神のもとに一旦差し出す必要性が問われます。
そこに対して個別性や特別性の放棄への自我の強烈な抵抗をまず感じるでしょう。
「自分は●●と違って●●なんだ!」
この言葉の組み合わせから生じてきた数え切れない全ての人生の痛みや喜びという中毒的な重荷を棚卸しする。
ワークブックのスタートの数十章も、徹底した今までの自分の世界への見方、自分自身への見方、価値観を放棄させる事に注意が向けられているので、ここでつまづく方も多いかもしれません。
自分は何も知らなかった。
自分は何も見ていなかった。
自分の価値観は全くの誤りであった。
この世界、肉体には一切の実存はなかった。
そう認めるのに、一体どれほどの自我の抵抗や不快感、恐れ、怒りがあるでしょう。
自分もまるで崖から突き落とされたかのような、底知れぬ深みにダイブするような感覚がありました。
これを読んでしまったら、もう一般社会で生きていけないのでは??廃人になってしまうのでは??
そんな恐怖を特に僕は感じました。
こんなやり方などありえない!
馬鹿げてる!
騙されて人生をダメにしてしまう!
さすがにこれは「現実的」ではない!
そんな風な思いは今現在も度々こみ上げます。
だけど、その死に物狂いの抵抗を見つめ、訂正し、まだ見ぬ真理を信頼し先に向かって一歩一歩ゆっくりと進むならば、いかに自分自身が神聖で神の子として当然にふさわしいものであるのか、その真理と愛を徹底的に味わう領域にコースは導いてくれます。
その神聖さや愛の片鱗に触れるならば、自分が洗いざらい差し出したものが全く無価値であり、もうそれにすがる生き方に後戻りしようとすら思わないものです。
自我は決して神になれず、神聖さのかけらさえ創造する事はできないのです。
つまり、自我は決して私たちの本来の姿ではないのです。
神聖さこそ、私たちの本来の姿であり、実体、実存なのだから。。。
その事にいかに腑に落ちるか、全託(サレンダー)するかが大切であって、そうして初めて人は長きにわたる輪廻転生のサイクルを少しずつ緩めていく道に入るのでしょう。
乗り物の回転が徐々に遅くなり、最後には止まるように。
その人生は穏やかで、平安な人生となり、
自我や肉体の提供するエキサイティングでスピーディーに移り変わる喜怒哀楽の二元性の世界から、少しずつ少しずつ距離を置いていく事になるのでしょう。
その回転の速いままに、人は輪廻転生を終える事はないのだろう、、、そう感じています。
猛スピードの乗り物から飛び降りる事はできず、やはりゆっくりとそのスピードを落とし、そしてしっかりと止め、安全に降りていきます。
つねに、ラットレースを走るように無いものを追い求め、この世で成し遂げる何かに達成感を見出し、そこに辿り着けない自分を打ち叩き、そうしない周りを非難し、、
そんな慌ただしい自分に、少しずつ少しずつ距離を置く。
しかし、そんな心境になる為には、まず初めにあるような全てを止める(放棄する)心境。
今まで何万年、何十万年と必死に漕いできた自我の自転車漕ぎを一旦辞めてみる必要がある。
そうして、今までの自分の無意味な人生の数々を構築してきたセオリーや信念、価値観を全て一切合切を静かに置いて、放棄し、我が家に帰る事のみに真の価値を見出した人は幸いでしょう。
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びの余り、行って持ち物をみな売り払い、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。高価な真珠一個を見出すと、行って持ち物をみな売り払い、これを買うのである」。
-聖書マタイ13章44,45節