おそらく、ワプニック先生の著書を読まれた方々からの「心」や「決断の主体」に関連する質問がJACIM(奇跡講座学習支援サイト)さんにあるとのことから、以下のQ&Aが紹介されてありますのでご参考くださいませ。
▼【質問】No.95 (orig.#901)心について、どのようにイメージすればいいのでしょうか
http://www.jacim.com/acim/?p=6591
昨日に学習した「知覚する主体」が今のところはわかりやすいと思いますが
でも、実際には「心」や「決断の主体」は知覚はしないけど、ワプニック先生の解説のレベル2においては「知覚する主体」を足がかりに源を突き詰めるというヨーガ哲学はどうであろうか?
ヨーガでは、「観るもの」と「観られるもの」とに識別し、純粋なる「観るもの」とは真我すなわちアートマンであり神様(ブラーフマン)と同一であるとして、「観られるもの」をタマネギの皮をむくようにして、ネーティネーティ(これではないこれではない)と神様ならぬ客体を拒絶していくのだが
『奇跡講座』は、「観るもの」と「観られるもの」の間に、「知覚する主体」と「知覚される対象」を置き、この「知覚する主体」を「観るもの」として自覚するように訓練しているところが、まさに、他にはないユニークさがあります。
この「観るもの」こそ、私の心であり神様の御心の一部でもあって神聖なのだ
ということを今までの流れで学習していることになっている、と、私は思っています。
さあ、今日は、「投影」を、自分の嫌いなものを外に見ることによってそれを除去するのではなく、私たちが心の中に見つけたいものを外に見てつながるという
心眼にて知覚できるように聖性を知覚される対象へと広げるようにイエスに助けてもらいましょう!
本日のテーマは「私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる」について
以下のテキストからの引用です。
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私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる
今日の主題概念は、昨日の概念を、知覚する主体から知覚される対象へと広げていく。
あなたが神聖なのは、あなたの心が神の心の一部だからである。
そして、あなたは神聖なのだから、あなたの視覚も神聖なはずである。
「無罪」とは罪がないことである。
あなたが少しだけ無罪であるということはありえない。
あなたはまったく無罪であるか、そうでないかのどちらかでしかない。
あなたの心が神の心の一部であるならば、あなたには罪が無いはずである。そうでなければ、神の心の一部が罪深いものということになってしまう。
あなたの真の視覚は神の聖性と関連があるのであり、あなたの自我にも、あなたの肉体にも関連はない。
(ワークブックL36. 1 p86)
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私の心が神様の御心の一部であるゆえに、私の心は神聖であり
当然、私の心が見る視覚も神聖なはずであるし
その視覚が、罪を映し出すということはあり得ないのならば
大いなる神様
私の心が神聖であるのは、あなたの御心の一部なのだから
その聖性により、私が見るものすべてを包み込むように助けてください
あなたの御心の一部としてだけ私の視覚を心眼として知覚される対象へと、あなたの聖性を広げさせてください
アーメン
この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。