昨日も触れたことに付随して、私の中での移行について書いてみたいと思います。
昨晩、家内が子供たちを感情的に怒っている状況を見ている私との関わりにおいて、私たちに対して赦しの視線を感じました。
とても、不思議な感覚です。
ほんの一瞬ではありましたが、その視線を見つめ返すと、その視線は微笑んでいるかのように思えたのです。
ここ最近は、見ているということよりも、この世界を丸ごと観ている視線を感じます。それは、一方向からだけでなく上下左右前後いたるところからであり、誰かに注目してもその背後に同じ視線が私たちに向けて、赦しの視線で観ているのです。
今朝、通勤電車の中で、肉体の中から見ている私は、その視線をいたるところで観ている存在の一部かのようにアヴァタラ(化身)しているか?何も無いのかも知れないなぁーとフッと想っていました。
これから、どのように行為し考え感じるのかは、その視線が、肉体の中から眺めて為すのか?それとも、この世界を丸ごと赦しの視線で眺めているところから為すのか?では、地獄と天国ほどの違いがあるようにも感じました。
そして、本日の主題概念となりますが
私は、被造物に対して、NOと拒絶し歪め、その間違いをこの世界へ反映させ、自らが作者としてその世界を再び拒否し別な何かを望み、作りかえるように頑張っていることからすれば
「すべてのものを、あるがままにしておこう」というのは、とても筋が通っていて一貫性があるように思えますし
私が感じている、この世界を丸ごと赦しの視線を静かに贈っている目は、私がこの世界から目覚めてこの世界の外?へと解放するのを待っているかのようです。
その視線通りに赦しを受け取って、その視線をあるがままに世界へと見つめ返すことで、幸せな夢という実相を妨げる罪という妄想の暗雲を取り除くようにと、温かい視線を静かに贈ってくれています。
子供の頃、この世界が砂場で転がして遊んでいる小さなビー玉で、自分はそのビー玉という宇宙の中の小さな小さな地球という星に住んでいて、このビー玉を今自分が観ているように観ている本当の自分がいるのかも、なんて、夢想しているときがありましたが
すべてのものを、あるがままにしておき、温かい赦しの視線、つまり、すでに与えられているヴィジョンをこの世界や兄弟に対して見つめ返すことができるようにイエスに助けてもらいましょう。
本日の主題概念は「すべてのものを、あるがままにしておこう」について
以下のワークブックからの引用です。
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すべてのものを、あるがままにしておこう。
1.主よ、今日、私があなたの批判者となってあなたを裁くことがありませんように。
あなたの被造物に私が干渉し、それを病んだ形に歪めようとすることがありませんように。
被造物の一体性に別なことを望んだ自分の願望を快く退け、それをあなたに創造されたままにしておくことができますように。
そのようにしてこそ、私もまたあなたに創造されたままの私の自己を、認識できるようになるのですから。
私は愛の中で創造され、永遠に愛の中に在り続けます。
私がすべてをただあるがままにしておくとき、何が私を怯えさせるでしょう。
(W-p2. 268. 1. P505)
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大いなる神様
父よ
今日、私たちの視覚が冒涜を犯さず、私たちの耳が虚言を聞かないように私たちをお守りください
あなたが聖霊を遣わせて、私たちに見せようとする実相のみが損失からの自由となるのだから
この実相のみが安全であるゆえに、私たちは、聖霊の赦しの視線を見つめ返すことにて、今日は、実相だけを求めていきます
アーメン
この日記を読む方々に、誰もが「無垢」で、神のひとり子キリストであるという真実がもたらす「永遠のやすらぎ」が訪れますように。