突然だけども、離婚した頃のことを書いてみようと思う。今まで当時のことはほとんど誰にも語っていなかった気がするけれど、ここ数ヶ月、果たしてそれは良いことだったのかと、自問自答することもあったから。
僕と彼女が出会ったのは1995年だと思う。飲み会で結構気が合った同士で、カラオケを抜け出して、河原でキスをしたのを覚えている。当時の僕は女性とはもう付き合わないことを決めているとか、訳のわからない予防線をはりつつも、趣味が合いそうで、擦れてなさそうな彼女の佇まいに好感を持った。内心はかなり舞い上がってて、こんなに上手くいっていいのかなと思っていた。
その後、彼女が近くに越してきて、僕らはちょくちょく互いの家に出入りするようになった。彼女は少々寂しがり屋で、僕は毎日電話でなだめるのが面倒になって、それならばとなったわけだ。そこから、一緒に創作雑誌で活動を始めることになる。
当時はインターネットがまだ一般化しておらず、創作したい人が交流するには、同人誌即売会や投稿雑誌のお世話になるのが一般的だった。僕は高校生の頃には漫画家になれないかと漠然と思っていて、そんな才能はないと認めるのに時間はかからなかったはずだが、35歳までは諦めないと、何かの時に心を決めていた。自分の思いを彼女に伝えることに困難を感じていたある時、詩のようなつぶやきを酔っ払ってワープロに叩きつけたら、なぜだかすっと気が晴れるものができた。彼女も勧めるので、そのまま投稿雑誌に載せてみたら、案外と好評を得た。それがきっかけで、投稿雑誌の連中とは随分親しくなり、音楽制作に混ぜてもらうこともあったし、旅行にも出たし、当時はそんなことばかりやっていた。1年ほどそんなことを続けた1997年の秋には、もう、創作以外の人生を認めてもいいかなという気持ちになった。そう思わせてくれる彼女の存在に感謝しながら。
その後、彼女は体調を崩して仕事を少し休んだ。職場での期待に応えられず悪戦苦闘したことがきっかけだったのかもしれない。正確な原因は未だにわからない。鶴見済の人格改造マニュアルという本を読みながら、自律神経失調の勉強をした。これからどうなるのかなと思ったけど、まだ若いんだし、休めば回復するとあるのだから、これも経験と思っておとなしく過ごそうと思っていた。その甲斐あって1年ほどすると彼女は復調して、僕たちの間では結婚の話が出るようになった。僕は緊張したが、彼女の存在は大切なものだったので、男として次の一歩を踏み出そうと思った。二人で創刊間もないゼクシィを読み、式に使うレストランを検討した。両親に話をして、お食事会でお互いに挨拶をした。まあこんなものだろうと思いながら、お互いに進めていった。
そんなある日、職場に電話が入った。「父が倒れたので病院に来なさい」という、家族からの電話だった。急ぎ電車で帰ろうとするとき、携帯にメールが入り、彼女から「また具合が悪くなった」と知らせが告げられた。
父はその日の晩に天に召され、家族は途方にくれた。結婚式については、ぜひ喪に服さずに行うべきだと、母も親戚も言った。頼りない僕には、なす術もなかった。二人だけ、信頼の置ける先輩に相談をした。「実は彼女の具合が悪いが、結婚を考えてる」と。一人は賛成してくれ、もう一人は反対してくれた。どちらも善意からだったと思うが、僕としては、やはりこのタイミングで止めることはあり得ないので、最後まで付き合おうと思うと言った。自分の心に嘘はなかった。
なんとか結婚式を果たし、新居となるマンションでミレニアムを迎えることとなった。僕らは夫婦の初めてのパソコンとして、富士通のWindows98を買い、お正月にはホームページを開設した。掲示板を使って、新しい創作友達と交流した。そこには独特の幸せ感と、不安と、じんわりした疲労があった。僕は昼間はそれなりに仕事をしていたが、どこか打ち込み切る気持ちにはなれなかった。2001年には資格試験を始めたが、1年目は二次試験で不合格だった。9月には同時多発テロが起きた。僕には毎日の不満をさるさる日記に書きつけるのが唯一の本音の場となりつつあった。不満と言っても奥さんの現状にではない。それは自分が選んだ道なのだから。だからそれ以外のことの優先順位は低いのだ。
ただ、一生懸命になれていない自分というのは、居心地の悪いものだった。目標や方針がなく、熱も情もない、義務感だけの人間になっていくような気がして不安になることがあった。近所の古本屋で、スラムダンクの一気買いをして、自分が情けなくなった。たるんだ腹を凹ませたくなって、ある時いきなり河原を走り出した。昼休みにはドリブルとシュートの練習を始めた。運動神経のない自分には無謀だったけれど、気合いで無謀なことをせずにはいられなかったのだ。
ぼんやりと、いつかこの暮らしを止める時が来るのかもしれないなと思った。でも自分にそれが言えるだろうかと考えると、現実的には想像できなかった。だからその日が来るにしても、10年後にも、もっと先にもなるだろうと。それまでは、この暮らしの中でなんとかせざるを得ないと思った。
が、ある日きっかけが起きた。詳細はここでは書かないが、あ、今日がその日なのだとはっきりわかった。今日言わなくては10年後になるとも思った。居酒屋に二人で出かけて、お互いの意思を確認した。二人の意見は一致した。一緒に最後の仕事として、お互いの親に説明しようと言った。それまで自分の保護者的な振る舞いが、彼女にどのような気持ちを与えていたかも聞いた。反省するところもあったけど、二人とも、もはや外れた歯車を組み立て直すより、もっといい方法があると確信していたと思う。その意味で僕らはまた仲間になった。
そんなわけで僕達は離婚した。悔いはないけれど、どっと疲れが出た。それまで、自分のために生きるのをやめて、人のために生きようと思っていたけれど、それが現実に形を取らないと実感した時、もはやいろんなことがどうでもよくなった。2年目の資格試験も当然のように失敗したけど、それも小さな事だった。自分にも至らぬ点、付き合いきれない点が多々あるのは、当時としてもそれなりに想像はついたが、何を信じたらいいのかわからなくなった。取り敢えず自分にできることは、これからは、人のために生きるのを理由にしないで、誰と付き合っても付き合わなくても、自分として生きるということだけだった。
今思えばそれも反動なのかもしれない。あれから10年以上がゆうに経つけれど、あの思いはもしかすると、いまだに自分の中に影を落として、不健全な影響となっているのかもしれない。
勢いのままに書き連ねたけれど、こうやって読み返してみると、残念ではあるが、自分にとって意味のある経験というところまで消化しきれていないようだ。けれど、このように外に出すことをずっとタブーとして、一回り以上の歳月が経った。そろそろそういう気持ちに区切りをつけるために、このような形ではあるが、言葉にして出してみるというのも、意味はあるのかもしれない。
不快になった人もいるとは思うけれど、どうかそうした前に帆を進めるためにも必要な擬似カミングアウトであり、言語化による自己セラピーと捉えていただければ、助かるところである。もしここまで読んでくれた方がいたのなら、感謝をお伝えしたいです。どうもありがとうございます。