知識の暗記と抽象的理解と論理的思考 | 堀江直樹の無限上達への道のり
おはようございます。





本日は吉祥寺に呼ばれて、お話をさせてもらいに伺います。




前回の『頭をやわらかくしてる?』の続きではありますが、




知識の暗記をもって論理的と思うのは危ないのではないか?という話をしました。





または言語化するのがうまいから、






というのも論理的というのは、違う気がしています。





私のなかで思うところでは、





論理的というのは抽象的、演繹的な認識をもって、





物事の共通の法則、仕組みのなかで整理できる能力ではないか?と考えています。





具体的な現象に対してもその法則性をもって一貫性のある話をできたときに、




論理が通っていると言える気がしています。





私のなかでは、『論理』という言葉は非常にどうでもよい言葉なのですが、





上にあげた見方を通してさまざまな物事を『理解』したい。





と最近は思っています。





暗記と理解は異なりますが、





自分がどのような定規や当て込むもので世の中を見ているかがわからないと、





そこから自由になることは難しい…。





しかし、自分がどんな枠組みでいるかということは





潜在意識の割合が97%とかそれ以上とか言われるように、





個人で認識することは難しそうですよね。





普通の認識の仕方では、





『後ろ』は向けるけど向けば向くほど新たな『後ろ』が生まれ続けることもありますし、





果たして終着点はあるのか?と思います。





だからこその人間の可能性がそこにつまっているともいえ、




変化や進化の余地を残してくれていると考えています。




そんな自分の無意識を補ってくれるのが、『他者』だと思います。




何かムッとするような相手が現れたとき、






それを敵としてとらえるのか?





見方を変えれば味方にもなったりしますね。





実は、




ムッとすることもほめられて嬉しいなということも同一次元で起こっていることですが、





そこにも気づけると、自分の意思で物事を選択していることがないことに気づけるかと思います。







最後の一文がよくわかる方。語りましょう。