事実学としての大河ドラマ「光る君へ」『紫式部と藤原道長』読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

 

<概要>

NHK大河ドラマ「光る君へ」に関する「事実の歴史」とも言える著作。第一次資料をもとに紫式部と藤原道長に関してどこまでが史実といえて、どこから先が想像と言えるのか、を紹介。

<コメント>

2024年の大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を担当している歴史学者、倉本一宏による著作。

 

大石静の脚本が素晴らしすぎるのか、吉高由里子や柄本佑の演技がうますぎるのか、それとも桁違いにお金をかけているNHK大河ドラマならではのセットが素晴らしいのか、わかりませんが「光る君へ」に今完全にハマってます。

 

(宇治橋にある紫式部の像:2023年10月撮影)

 

まひろ(紫式部)の秘めたる思い(恋愛も自分のやりたいことも)や、ちょっと後ろに下がった視点が面白いし、これに加えて平安時代版「大奥」的な権力闘争もあって、人間の醜さと美しさが糾える縄のように展開されて、さらに京都ならではの美しい情景が借景となって全体の空気感を醸し出しているような感じなのです。

 

(廬山寺内の紫式部像:2024年2月撮影)

 

▪️『源氏物語』と廬山寺

ここまでハマるとは思わず、昨年から今年にかけて周遊した京都でも、紫式部が源氏物語をここで書いたに違いない、という廬山寺にもたまたま行ってきたのですが、実は廬山寺のある、まさにあの場所で源氏物語が描かれた確率は25%ー50%ぐらいだそう。

 

というのも、当時「中川のわたり」という場所に紫式部の居住した住宅があったのですが、その場所は現在の梨木神社から廬山寺にかけての一町(約120m四方)の地。

 

この土地を紫式部の父親(為時)とおじで(為頼)分割したというので、半分づづだったとすれば半分の確率だし、さらに4分割したりしていれば、4分の1ということになるからだそう。

 

(廬山寺の庭園:同上)

 

▪️紫式部と藤原道長の関係

こうやって本書を通読すると、紫式部と藤原道長が実際に恋仲にあったかどうかはともかく、最後の著者のいう

道長なくして紫式部なし、紫式部なくして道長なし

本書319頁

というのは、ほぼ事実でしょう。

 

平安時代の権力闘争のポイントは、いかに自分の娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませ、皇子を天皇にさせて天皇の祖父として政治の実権、というか人事権を握るかどうか、ということ。

 

道長の場合は、自分の娘「彰子」を一条天皇に嫁がせ、いかに彰子に子供を産ませるか、が権力掌握のキモなんですが、そのためには、一条天皇に彰子のところにできるだけ立ち寄ってもらわなければなりません。

 

そのために活用したのが紫式部。

 

文章好きの一条天皇が読みたくなるような文章=『源氏物語』を彰子のお付きの女官「紫式部」が書くことで、一条天皇の興味を惹かせたのです。

 

どうやら道長は、紫式部の父親、藤原為時からその娘の文才を知らされていたらしく、紫式部を自分の娘のところに出仕させます。

 

そして、当時貴重な「紙」を紫式部に提供し、源氏物語を書かせたのです。

 

それでは本当に一条天皇は『源氏物語』を読んでいたのでしょうか?これが本当に読んでいたし、しかもより深く読んでいたらしいのです。

 

紫式部の日記『紫式部日記』によれば、

主上(一条天皇)が、『源氏物語』を人にお読ませになられてはお聞きになっていたときに「この作者はあのむずかしい『日本紀』をお読みのようだね。ほんとうに学識があるらしい」と仰られたのを聞いて・・・

本書155頁

と紫式部自身が自分の日記に著述しているのをみても、明らかに一条天皇は源氏物語に夢中だったに違いない。

 

著者の倉本によれば、一条天皇が『源氏物語』を読むことで、その作者紫式部の歴史に対する造詣の深さを悟る、という一条天皇自身のこの物語への関心は、相当なものではなかったか、と想定しています。

物語好きな一条が『源氏物語』のつづきを読むために彰子の御在所を頻繁に訪れ、その結果として皇子懐妊の日が近づくというものである。

本書156頁

 

結果として彰子は、後に天皇になる息子(後一条天皇・後朱雀天皇)を二人も産んだのですから、紫式部の登用は大成功だったのです。

 

▪️藤原道長と仏教

道長の晩年は、まさに仏教と密接不可分の関係になります。というのも、現代人にとっては病気は医学が治癒するものですが、平安貴族にとっては病気は仏教が治癒するものだったから。

 

そして死後の世界も仏教が支配する世界だったから。

 

高齢化するにつれて、道長は病気がちになりますが、1019年正月に胸病を患い、前後不覚となってその3月に出家。そして6月には念仏を唱えはじめて極楽往生に向けた準備を始めます。

 

そして7月には居宅の土御門第の東に丈六の阿弥陀像と四天王像を造立することを発願し、これがのちに巨大な法成寺となるのです。

 

(清浄華院境内にて法成寺推定地の礎石:2024年2月撮影)

 

9月には受戒(正式なお坊さんになること)のために奈良東大寺に出立。

 

1021年にはひたすら念仏を唱え続け、1023年、高野山詣を実現。そしてその年に年末には法成寺に大仏を建立するなど、極楽往生の準備は完了。

 

そして1027年、病状は悪化し、法成寺阿弥陀堂の正面の間に移って生き絶えたと言います。

 

このように、(最後は鍼灸治療なども行ったようですが)結局は仏にすがってなくなるのが平安貴族の最後の姿で、仏教がいかに彼らの闘病生活や終活に密接に関わっていたか、がよくわかります。

 

「日本史上最強の権力者」と著者のいう道長も、そのお墓は現在の「宇治市木幡小学校近隣の某修道院の敷地内」だとされているようですから、今はその痕跡は知る由もありません。