「自由」とは何か?
とても大雑把な問いですが、今ハマっている中国ドラマ『安家』をみたり、権威主義国家カタールやエジプトに旅行したりしていても、実際の彼ら彼女ら権威主義国家に生きている庶民の生活を見ていると結構、みなさん自由なんですね。
つまり自由とは「政治的自由だけではない」ということです。
権威主義国家が自由を制限しているのは「反体制的な行動や意見の表明」だけです。反体制的な行動や意見の表明」さえしなければ、あとはほとんど自由なんですね。
つまり政治に興味のない庶民にとっては、極端に言えば、自由主義国家も権威主義国家も大して変わらないのです。
そんな素朴な疑問から、それでは自由ってなんだろう、と考えた結果、少なくとも現時点では自由にはどうやら「五つの自由」がありそうだな、ということです。
つまり民主主義という「政治的自由」のほか「経済的自由」「身体的自由」「時間的自由」「空間的自由」の「五つの自由」があるということ。
⒈身体的自由
最も重要なのが、身体的自由です。
身体的自由にはゴールがないのも特徴です。体が五体満足で、さらに運動機能や神経機能がより発達していれば、より自由になります。
神経機能とは「より知的能力が高い」「より社会的能力が高い」ということです。
したがって遺伝的に、環境的にどうしようもない部分もあるとはいえ、自分の鍛え方次第では、運動機能も神経機能も向上させることができます。
身体的自由の向上には、最低限の健康状態の維持ですが「教育」も「身体的自由」をより向上させる事、になります。
⒉経済的自由
経済的自由とは簡単にいうと「お金の呪縛から解放されること」です。
自分の幸福が実現できるためのお金が十分にあって経済的自立ができれば、私たちはお金の呪縛から逃れ、経済的自由を謳歌できるのです。
少なくとも衣食住満ち足りることが最低限の経済的自由。
そして仕事しなくても生きていける状態が経済的自立。経済的自立までいかなくても、お金があればあるほど自由になる、というのはこの消費社会において誰もが実感できることだと思います。
⒊政治的自由
一般的には政治的自由とは「表現の自由」「信条の自由」がメインですが、上述のように最近は特に「反体制的な意見・行動を表現する自由」がどの程度自由か?、が民主主義国家と権威主義国家のボーダーラインになっているように感じます。
先日のエジプトやバングラディシュの選挙なども象徴的ですが、最近は民主主義の皮を被った権威主義国家が増えているものの、これらの国家では「反体制的な意見を表明する自由」さえ目を瞑れば、そのほかの自由はある程度許されているので、「反体制的な意見・行動の表現がどれだけ可能か」が民主主義度のバロメーターになるように思われます。
ただ、政治的自由で最も重要だと私が思うのは、平和的な政権交代ができるかどうか、です。
現体制が民意を反映させないような政治に陥った時、民主主義は選挙によって平和的に政権交代可能です。
しかし、権威主義国家は民意による政権交代ができません。
権威主義国家で政権交代が起きるのは、主に軍事クーデター。そして必ずしも軍事クーデター政権が、民意を反映するかどうかは、その政権次第(能力や公益性)だからです。
なので、政治的自由は、実は非常に重要なのです。
⒋時間的自由
健康でお金も十分にあっても、時間がなければ自由は実現しません。
すべての時間が自分のやりたいことに使えなければ、いくら健康でもお金があっても意味がありません。
逆に「何らかの働くこと」が自分のやりたいことであれば、時間もお金も不要になりますから「働くこと」が自分の幸福になれば、経済的自由はある意味不要になります。
働くことは「自分の時間を費やすこと」とほぼ同じですから(これは資産運用などの「不労所得」も何らかの時間を使っているので同じ)。
したがって自分の好きなことを「働くこと」にすると、私たちの幸せは相当に満たされるかもしれません。
⒌空間的自由
コロナパンデミックで「いかに空間的自由が大切か」私たちは実感しました。
「人間が好きな場所に行く」という行為は、人類学的に「歩くことがデフォルト」な私たちホモ・サピエンスにとって、とても重要な行為です。
犯罪者への罰で刑務所に犯罪者を一定期間拘束するのも「空間的自由を制限すること」がいかに人間にとって「罰=嫌な事」になるか、ということで、世界中どこを見渡しても実践している罰です。
以上、まだまだ思考途中ではあるものの、権威主義国家に生きる人たちは本当に不自由なのか、という疑問から考えてみました。