京都の風土:憧れの苔寺(西芳寺)にやっと行くことができましたが。。。 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

この数ヶ月京都の風土を勉強してきましたが、そんな中で知ったのが夢窓疎石(夢窓国師)といいう鎌倉から室町時代にかけて活躍したお坊さん。

 

すでに夢窓に関する紹介もしましたが、以下実際に夢窓が作庭したという庭園を見るべく西芳寺へ。

 

 

▪️西芳寺の拝観方法

西芳寺を拝観するためには事前にサイトで予約し、一人当たり4000円支払う必要があります。

 

 

 

 

西芳寺は「檀家がいない寺」とのことで実際にこの拝観料で運営していると思われ、1日100名拝観してもらって年間350日拝観してもらうとするとおおよそ1億4000万円ほど。

 

そして別途西芳会なる有料制の会(というか新しいカタチの檀家制度か)があってこの収入が別途あるので、相当な収入ではないかと思われますが、これだけの規模の伽藍と庭園を運営するためには致し方ないのかもしれません。

 

 

そして実際にお伺いすると半分以上は外国人観光客で、これは本寺に足繁く通っていたというスティーブ・ジョブスの影響も大きいかもしれません。

 

▪️苔庭は、夢窓国師の作庭した枯山水ではない

慈照寺銀閣の庭園は西芳寺の庭を模して作られたという。西芳寺は女人禁制だったので、将軍足利義政が自分の母だったか妻だったかに西芳寺の庭を見せたかったのですが見せられず。

 

なので慈照寺銀閣を創建して女性でも西芳寺のような美しい庭を見てもらえるようにしたとか。

 

しかし残念ながら、義政が女人に見せたかったという西芳寺の庭は、世界的に有名な苔寺と名付けられた私たちが今拝観できる苔庭(池泉回遊式庭園)のことを言っているのではありません。

 

西芳寺には上下、二つの庭があって下の庭がいわゆる苔庭(池泉回遊式庭園)で我々が事前予約して4000円払って入る庭。

 

 

そして義政が見せたかった庭は我々が入れない上段にある枯山水の源流となった夢窓疎石(国師)が一から作庭した庭のことを言っているのです。

 

 

この庭は日本全国にある枯山水の庭の源流と言われていて、この庭を見るためには、まずは会費をお支払いして西芳会会員にならなければなりません。そしてさらに別途1万円以上のお布施が必要(写真撮影禁止)。

 

まさに禁断の庭となっているのです。

 

 

ぜひみてみたいのですが、お金がさらにかかるのでちょっと迷ってしまいます。

 

以上、拝観するのに手間もお金もかかる西芳寺ですが、私たちが拝観できる下段の庭も拝観するに値する見事な苔庭であることには間違いありません。

 

▪️西芳寺の由縁

以下、引用を中心に西芳寺の由縁について紹介します。

 

 

西芳寺は奈良時代、聖武天皇の在位中に、行基菩薩が近畿地区に開いた四十九寺のなかのひとつに始まるといいます。行基は全国各地で橋をかけ、池を掘り、道路を作り、貧しい人びとに施しをして回ります。

 

そして、その功績により、聖武天皇より大僧正の位を授けられた最初の受位となる(『夢想疎石 日本庭園を極めた禅僧』61頁より)

 

 

西芳寺は1339年、夢窓65歳の時、思いがけなく松尾大社宮司の藤原親秀によって与えられた寺であり、いわば夢窓の私寺。

 

とすれば、夢窓は公寺である天龍寺より私寺である西芳寺において、庭造りをより大胆に行ったに違いないと思われます(梅原猛著『京都発見8』より)。

 

 

 

 

 

間違いなく事実として認められるのは、ここに、跡に鎌倉幕府の評定衆もつとめた中原師員が浄土の信仰を起こして西方寺、穢土寺という二つの寺を建てたこと。

 

寺の名から言って西方寺は阿弥陀信仰の寺で、穢土寺はここが鳥辺山と同じように人間の死骸の捨て場であったことを考えれば、祀る人のいない無数の餓鬼を供養する寺であったに違いありません。

 

この二つの寺を建てた中原師員の四代の孫と言われる藤原親秀は夢窓の評判を聞いて、この寺を夢窓に寄進(同 29頁より)

 

夢窓は西芳寺を「祖師西来、五葉聯芳」という言葉から西芳寺と改め、池の北にあった阿弥陀仏を祀る本堂を西来堂とします。

 

そしてもともとあった極楽浄土の池を黄金池と名づけ、湘南亭や潭北亭をつくり、西来堂の少し南西に建物を建て、1階を瑠璃殿といい、2階を無縫塔と呼ぶ。無縫塔には彼自身をはじめ多くの生きとし生けるものを祀る寿塔を建てました。(同 32頁より)

 

夢窓が新たに造ったのは下の庭と称せられるこの庭ではなく、上の庭と称せられるもの。

 

この下の庭から上の庭に登るところに向上関という門があり、

 

(この階段の奥に上段の枯山水がある)

 

そこから通宵路という石段を登り指東庵に至りますが、その右手に枯山水の石組みがあります。そして左手に座禅石という石があり、夢窓はその石に座って、枯山水の石組みを見ながら座禅をしたらしい。この枯山水の庭が夢想が新たに造った庭(同 32頁より)

 

この西芳寺の庭を作庭するにあたって、多くの大名たちは争って寄付。

 

なぜなら足利尊氏の最も尊崇する夢窓の意を迎えようと媚を売りたいから。

 

しかし庭を造ったのは戦乱で職を失った差別された人たち。夢想が死んだとき、そのような人たちが押しかけて困った話が公家に日記に見えているらしい。夢窓は天皇は将軍ばかりでなく、差別された民からも親の如く慕われていたお坊さんだったのです(同上)

 

▪️夢窓国師の現代性

上のブログで紹介したように、夢窓国師は臨済宗のお坊さんであるとはいうものの、その思想は折衷的で間口が広く、貴賎問わず宗派問わず、現代の啓蒙主義にも通じる思想でとても共感が持てます。

 

「人間の目指すべき幸福は皆一緒だけれども、その手段は人それぞれで良い」

 

という思想だから、それぞれの人々が自分の納得のいく方法で幸せを見つけてほしい、そんな願いを庭にして表現したのが、夢窓国師の枯山水。

 

庭を観ながら自分自身に問いかけ、本当に自分にとっての幸せってどういうことなんだろう、と問いかけし、そして自分にあった方法で幸せになればいい。

 

もし夢窓国師が現代に生きていたなら、きっとそう言ってくれるような気がします。