「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著 「私評その1」 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

衣食住満ち足りた先進国に生きる我々は、一体どう生きるべきか?を「暇と退屈」をキーワードにその人類学的・歴史学的・思想的背景を織り交ぜながら、著者なりの結論を導き出した現代思想的、思想書。

 

<コメント>

受講しているセミナーの課題図書『暇と退屈の倫理学』通読。これは非常に面白くて一気に読んでしまいました。以下長くなりそうなので、複数回に分けて展開します。

 

■現代思想家に共通する考え方

今回の國分功一郎含め、千葉雅也や東浩紀など、日本で人気の現代思想家は、だいたいみんな同じようなことを言ってるな、という印象でした。ひとことでいうと

 

「一つの価値観に固執するな」

 

ということ。

 

*千葉雅也  :『勉強の哲学』→脱コード化(=コードの間を浮遊)

 

*東浩紀   :『弱いつながり』『観光客の哲学』→偶然による観光客的浮遊

 

*國分功一郎 :本書『暇と退屈の倫理学』→暇の拡大による複数の環世界を浮遊

 

加えていえば、作家平野啓一郎『私とは何か』「個人」から「分人」へも同じ。

 

現代思想=ポストモダンは、あらゆる価値観は相対的だとする「相対主義」の立場なので、みな「一つの価値観に固執するな」という結論になるのかもしれません。

 

■本書におけるスピノザの主張

以下、17世紀オランダの哲学者スピノザが著書「エチカ」で述べた言葉をそのまま引用します。

だからもろもろの物を利用してそれをできるかぎり楽しむことは賢者にふさわしい。たしかに、味のよい食物および飲料をほどよく取ることによって、さらにまた、芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは賢者にふさわしいのである(スピノザ『エチカ』)。

心に刻んでおきたい言葉です。著者の國分功一郎は「エチカ」に関する新書も著しているので追って読んでみようと思います。

 

 

■哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営み(國分功一郎)

哲学系の本では、それぞれの哲学者が、彼ら彼女らなりの新しい概念を言語化します。まさに著者のいう通りです。

 

本書では著者の「暇と退屈」、20世紀の哲学者ハイデッガーの「退屈の第二形式」、動物学者ユクスキュルの「環世界」という概念がキーワードになっています。

 

 

■「好きなこと」は主体的か?

社会心理学的には「個人の価値観は社会が規定する」ということですが、哲学の世界でも同じようなことが言われています。

 

本書では西欧を対象に「我々がなすべきこと」として時系列的に整理してあります。

①20世紀以前

衣食住が不足する社会だったので、衣食住を満たすための行動が「我々のなすべきこと」であった

②20世紀以降

衣食住が満たされたので、これまでの「我々のなすべきこと」が喪失してしまった。これを「歴史の終わり」と呼んだ。

→バートランド・ラッセル「だから彼らは不幸だ」

→ブレーズ・パスカル「やることがないのは不幸の源泉」

 

「我々のなすべきこと」の喪失を埋めるために、生産者が「我々がなすべきこと」を提供するようになった。これが「我々の好きなこと」になった。これを「消費社会」と呼ぶ。

→人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった(アドルノ&ホックハイマー)

20世紀以前では「生きるために」そうせざるを得ないことが「我々がなすべきこと」だったのですが、20世紀以降の啓蒙主義の浸透によって「生きるためになすべきこと」は生活の一部にとどまり(=労働時間の短縮)、この結果「暇」が生まれたので、その「暇」の「気晴らし」を提供すべく、生産者によって創造されたものを「好きなこと」として欲するようになった。

 

つまり「我々の好きなことは主体的ではない」(=生産者にコントロールされている)というわけですが、衣食住満ち足りた現代日本で小売業を30年間自分の生業としてきた身としては、この結論はあまり納得できません。

 

生産者が生産したものをそのまま消費者が受動的に受け取るだけであれば、生産されたものは常に100%消化されて「廃棄ロスゼロ」です。これでは社会主義の計画経済みたいです。

ちなみに日本の

食品ロスは、 年間522万トンで世界の食料品不足量の倍以上(消費者庁HP)

衣料品ロスは、年間100万トンで約15億着(MIRASUSのHP)

資本主義社会では、生産者が生産した「モノコト」を彼らの宣伝にしたがって消費者がそのまま消費しているわけではありません。生産者(供給)と消費者(需要)のギャップが引き起こす「ロス」は膨大です。

 

■高度消費社会:日本の事例

⑴プロダクトアウトの時代(1970年代に先進国の仲間入りするまで)

慢性的なモノ不足だった日本では、生産したものがそのまま生活に必要なもの、或いは日本人の大半が欲しがるもの(洗濯機、冷蔵庫、自動車など)として大量供給され、大量消費されました(=アメリカ型の大量生産大量消費時代の到来)。

 

→消費者は生産者にコントロールされているわけではありません。

 

⑵マーケットインの時代(1980年代以降の衣食住満ち足りた先進国になって以降)

なんでも手に入るので、個人の趣味趣向によって消費が左右される時代。

 

著者(やガルブレイズ)のいうように生産者たちの巧みな宣伝によって購入意欲を掻き立てられ、或いはパソコンのようにOSのサービス期限やアップデートによるメモリ不足などで、まだ壊れていない既存のパソコンが強制的に買い換えさせられ、などの傾向は一部ありますが、マクロ的には消費者主導型のマーケットインの時代。だからセブンイレブン創業者の鈴木敏文が「小売業は変化対応業」と言ったのです。

 

→逆に消費者が生産者をコントロールしています。

 

⑶生産と消費はインタラクティブ

私の実感では現代社会は「生産者と消費者がインタラクティブに共鳴しあってマーケットが創造されるというイメージ。生産者の想像したモノ・サービスが消費者に取捨選択されて、その傾向を生産者が商品に反映して、というサイクルが今の消費社会ではないかと思います。

 

■暇と退屈のフロー

⑴先進国では、労働時間短縮で「暇」が生まれる。

⑵そうすると暇の退屈しのぎの「気晴らし」として自分の好きなことをやろうとする。

⑶でも自分の好きなことってなんだろう。よくわかない。

 

⑷シナリオその1

 「消費社会への埋没」=それは生産者が提供してくれる

⑸シナリオその2

 「原理主義化」=とにかくなんでもよい。何か没頭できるものを渇望する

⑹シナリオその3

 「暇と退屈の倫理学」=退屈しなくてもよい複数の「楽しい時間=贅沢」を味わう

 

結論的には外から与えらえる受動的な「気晴らし」ではなく、暇があるのに退屈していない「シナリオその3」が理想。そして一つの楽しい時間ではなく、複薄の楽しい時間(=環世界)を味わいましょう、というのが著者が導き出した「暇と退屈の倫理学」。

 

引き続き、「原理論」や「系譜学」について展開したいと思います。