藩主の忖度だった「松本市」の廃仏毀釈(2022年10月改訂版) | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

本書によれば、松本市は、鹿児島や高知、水戸などと並んで、激烈な廃仏毀釈運動が展開された地域。

 

 

その要因は、もともと徳川家一族だった松本藩最後の藩主、松平(のちに戸田)光則の、お家存続をかけた必死の維新政府への忖度がもたらしたもの。そのおかげかどうかはわかりませんが、戸田光則は、維新政府から初代松本藩の知藩事に任命されます。

 

 

松本の廃仏毀釈の激烈さは過去に紹介した、破却率100%の鹿児島にはさすがに及びません。

 

 

しかしながら、松平戸田家の菩提寺だった全久院はじめ、164あった寺院のうち124の寺院が破却(破却率76%)。

 

(再建された全久院)

 

1870年、神道が国教化(大教宣布の詔)されるにあたり、戸田は同年「廃仏帰神の藩令」を発布。同時に政府に向けた願書で、

我が国は祭政一致の方針であるから、今後は神葬祭への改典と寺院の破却を申し出たい(本書105頁)

これを政府は全面的に容認したそうだから、建前上「神仏分離」と政府は発令していたものの、仏教抹殺もいわば実質的には黙認していたわけです。

 

戸田曰く

(葬式は)仏式を廃止し、神葬祭式に変更し、自分自身率先して実行するのは事(廃仏毀釈)が速やかに実行されることを切望しているからである」(本書105頁)

明治初期に実施された文部省調査によると、全国の約4割の小学校が寺院を利用したものだったらしく、松本でも、国宝の開智学校は戸田家菩提寺の全久院跡地に全久院の建材を再利用して建てられたもの。

 

(再建後の全久院本堂)

 

その全久院は、今は「まつもと市民芸術館」の近くに再建。

現在の全久院(松本)の敷地は瑞松寺廃寺跡で師範学校建設予定地だったものを筑摩県(当時)より買取り、大町の青柳寺を移築しました。当時は新たに寺院を創設することは禁止されていたため、苦肉の策だったのです(全久院HPより)

玉突きを食らった瑞松寺は、致し方なく平成の名水100選に選ばれた「源智の井戸」近くに移転。

 

(瑞松寺界隈)

 

このように寺院関係者は、大変な災難にあったわけですが、一方で松本の廃仏毀釈がこれだけ激烈になったのは藩主の忖度だけではなく、民衆の寺院に対する反感も高かったから。

 

特に松本市西部にあった若澤寺は、奈良時代から続く大寺院だったらしいのですが、

(2022年8月撮影。以下同様)

 

江戸時代より僧侶の放蕩ぶりが激しく、檀家から黙認されていた妻帯は当然で、妾や遊女を囲うなどの堕落ぶり。

 

(四躯でないと走破が困難な山道の奥深くに若澤寺跡地はある)

 

(地元の方中心に整備されたと思われ、若干の痕跡をみることができる)

 

一方で浄土真宗は正行寺住職「佐々木了綱」を中心に、真宗独自のネットワークで神仏分離令が決して廃仏ではないことを情報共有して破却を免れ、大町にある信濃国最初の曹洞宗の寺院、霊松寺住職「安達逹淳」は、必死の抵抗運動の末、檀家のサポートで上京し、太政官に廃仏令の撤廃を承認させるなどの動きも。

 

(信濃大町駅)

 

ついに1871年「廃藩置県」によって松本藩が廃され、戸田光則は知藩事を解かれて上京。これをもって廃仏毀釈運動は沈静化。

 

松本市街は松本城以外、江戸時代以前の歴史的建造物が皆無というのも、こんな悲劇があったわけです。