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私はブログ「安全基地」の所で自身を「なんか変だよ?」

と書き、愛着障害疑惑が自分的に浮上したので、もう少しそこのあたり深掘りすることにした。


果たして私の幼少期は安全基地はなかったのか?


そう言えばあまり幼少期の記憶が無い。


アルバムには楽しそうに笑っている幼少期の写真が多い。


ただ、よく泣く子だったと聞かされていた。

特に年中さんに上がる頃、絶不調だった様で、2週間位登園拒否をしたのは覚えている。


担任の先生が怖そうに見えて嫌だった。

本当は優しかったかもしれないのにね、酷い話だ。


その後年長になり担任が変わった後は楽しい思い出ばかり。


そんな私に両親は何とか対応してくれたのだと聞いている。

父は仕事で不在がちだったが、たまの休みには膝に私を座らせ焼き肉など食べさせてくれては笑っていた記憶がある。


母は、一緒に山登りに出掛けた際、私がちょっとした崖から落ちそうになったのを必死で引っ張り上げてくれたのを覚えている。


好きだからとよく山盛りチャーハンやナポリタンを作ってくれた。


うーん、十分安全基地じゃないか。


運動会にも来てくれたし、誕生日会もしてくれた。


私が勝手にメランコリーになっいたのか!?


父はたまに遠くに泊りがけで出張に行くが、駅まで見送ると可哀想で涙が止まらなかった。

あまり毎回泣くので、もうお見送りに来なくていいよと言われたくらいだ。


何故可哀想に思ったのだろう。 


作業着を着て出張に向かう父を見て、母と見たネオレアリズモ映画の「自転車泥棒」を思ったのだろうか。


、、、関係なさ過ぎる。


大体盗んでない。


母にも戦災孤児になった話をされていたから、一緒に「禁じられた遊び」等戦争関係の映画を見る度に大泣きした。


大泣きしすぎて母は困って私に飴をくれた。


それくらい私のメランコリックな「可哀想病」は重症だった。


弟のこともいつも心配だった。銭湯の帰りに暗い夜道を勝手に走っていってしまうので、車に引かれるんじゃないかと、いつも心配だった。


私が「母を幸せにしてあげられなかった」という罪悪感の発端はここから来ている気がする。


安全基地はとりあえず幼少期にはあったはずで、感謝しなければならないよね。


安全でなくなって来たのは11歳頃からかなぁ。(続く)