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 母の死をなかなか受け止められず、私はグリーフケアのスクールの門戸を叩いた。 


 グリーフケアのスクールでまず驚いたのは心地よい「間」。 


 授業ではワークで敬話敬聴(あえての敬です)の実践ワークがとても多く、最初は「え!話すの?私が?」とドギマギしたが心地よい「間」でただ寄り添って親身に聞いてくれるその空間が心地よい。 


それに、他の受講生さんもスムーズに話している。


 「あ、話していいんだ☺」


 最初からそんな気になれた。


 そして講師の先生方は、心のもやもやした部分をうまく整理された言葉を下さる。 


 「あ、そうそう、それが一番思ってる事なんです」 


 みたいに頭の中がスキッとする。 

 敬話敬聴ってすごい。


 自分でも気づかなかった心の奥底にあった違う悩みがほっとこぼれたりする。 


 受講を進めるうちに、私は母の死そのもので落ち込んでいたと思っていたが、その奥底に何か違うものが潜んでいる気がしてきた。 


 母のグリーフを語る時必ず出てくるのが   


「母をもっと幸せにしてあげたかった」 


 「母をもっと安心させたかった」 


 これは幼少期から何となく思っていた。 


 幼少期なのに、今考えると随分と上からだ。


 母親に甘えて受容してもらう時期ではないか? 


なのに

「幸せにしてあげたい」って… 


 どれだけ母を不安な人に思っていたんだろう。 


 その当時の母の事はあまり覚えていないが、軽い鬱があったようではあった。

 戦災孤児であることも相まって、寂しそうに見えてしまったのだろうか。 

 そして私がなんとかしなければって。 


 私は幼稚園に年中さんから入り、有名な泣き虫だった。


 注射と言っては泣き、友達に何か言われたと言っては泣き、もう一人の男の子と並んでピーピーとうるさかったのを自分でも覚えている。 


 そんなピーピーが 

「お母さんを幸せにする!」

 ってちゃんちゃら可笑しいのだが、本人は本気だったのだろう。


 年長になり担任が変わったせいか急に幼稚園が楽しくなり、集団生活をクリア出来た、やれやれだ。 


 思えば5歳差の弟がおり、生まれたての頃、私がピーピーだったので、母は幸せどころか頭を悩ませていたに違いないのに(笑) 


 とんだ勘違い野郎だ(笑)


 その勘違いは目出たく現在まで続いていた。 

 何年たっても 


「自分のことばかりで母に淋しい思いをさせたまま亡くなってしまった」 


その考えで余計にグリーフを引きずっているのかもしれないと思った。


 そこまで気付いても、未だに母に淋しい思いをさせた自分が許せないでいる。 


 きっと自分も甘えたい盛りに甘えられず淋しい思いもしただろうに、そうは思考が至らないところが、何か変だよ!?


 ここを掘り下げないと、真の意味で新しい自分に再生出来ない気がしたので、調べてみた。 


  すると「愛着障害」やら「アダルトチルドレン」やらのワードが出てきた。


 目標は自分探しをして新しく再生してゆくことだ、調べてみよう! 

 というわけでそういった関連の本を買いこみ、片っ端から読んだ。 


 その中にエゴグラムという簡単なチェック表があり、やってみると…完璧とは言わないまでも、軽く当てはまっているではないかい! !


これをどげんかせんといかん。


   これまでの数々の失敗はそういうこともあったのかも… 


 とりあえずはカウンセリングを受けてみようと思い、読んだ本に関係する団体に申し込みを送った。 


 申し込んだだけで、何だかまた一つクリア出来た気がして(早くね?)心が軽くなってきた。


 それらの本には、超ざっくりいうと子供時代に母など特別な存在との愛着が築かれないと、大人になってもその思いは残り、生き辛さを抱えるが、愛着を取り戻せるような安全基地があることで生きやすくなるというものだった。 


 だからグリーフケアのスクールの受講で安心して語り話を聞いてもらえることで心が軽くなっていたのかもしれない。


 日記を書くこともとても良いらしい。話を聞いてもらっている疑似体験のような物なんだとか。 


 かつての文豪には愛着障害を抱えた人が沢山いるそうだが、彼等は書くことで安全基地を形成していたのではと言われているそうだ。 


 私の幼少期は

「可哀想な生い立ちの母を守らねば」

という考えに囚われ子供らしく甘えられなかった。

 ところが小学校中学年あたりから母の躁状態出現により、優しかった母の喪失体験と共に「守らねば」が遂行できなくて混沌とした気持ちを引きずっていたののかもしれない。


 そしてそのまま現在に至ってしまった。 


 途中、結婚したり子供が生まれたりして、愛おしく思う母らしい気持ちは生まれたけれど、依然として母への混沌とした思いは解決することがなく遠ざかっていたのかもしれない。


 私は以前母に 


 「本当の友達は人生で一人か二人出来れば良い方なのよ」


 と言われた言葉に甘んじたのか、友達を沢山増やしたいと思って接したことがない。


 本当に心を許せる友達しか要らないと思ってきた。 


 なので未だに本当に友達と呼べる人数は片手くらいだ。 


 まず、信頼するまでにすごく時間がかかる。 


 若い頃

「この人いい人だわ〜」

と思っては、残念な事も多かった。 


 初めての恋人は、なんと親友だった子が同時に隠れて付き合っていた。 


 その後出来た親友は突然の病気で亡くなってしまった。 


 そんなこともあり、簡単に親友を作れなくなっていた。


 未だに「友達100人出来るかな🎶」という歌はあまり賛成出来ない。 


 こういう事も含めて、生き辛さを抱えているのではないか、と思ったわけだ。


 寂しかったり、信じられないという子供時代の自分をヨシヨシしてあげられるのだろうか。


 いつか誰かの安全基地になりたいのなら、まずは自分の安全基地を作らないとならないよね。


 カウンセリングや新しい本が待ち遠しい今日このごろだった☺(続く)