母に「大好き」とは言えないまでも何らかの愛しみの言葉をかけようと、施設へ向かった。
「あらぁ、来てくれたの、遠いのにありがとうね」
車椅子を押されながらニコニコした母が近づいてきた。
「では15分したらお迎えに来ますね」と介護士さんは去った。
「お母さんね、実はお母さんの疎開した黒沢村に行ってきたよ」
黒沢村とは茨城県と福島県の境にある山奥で、先日茨城に行った時に無性に見てみたくなり足を伸ばしたのだった。
夕方から夜にかけて車を走らせたが、ほとんど人とはすれ違わない本当の山の中だった。
たまに民家がぽつり、ぽつりと現れるがその山道はどんどん真っ暗な闇と化していった。
地図を頼りに、母が70 年前に通ったであろう黒沢中学を目指した。
コンビニはもちろん、商店も見かけなかったその真っ暗な山道の途中に、ロープで括られた黒沢中学はあった。
恐らく閉校になったのだろう、どこかのリゾート会社の看板が掲げられていた。
良かった!取り壊されるギリギリで見ることが出来た!
古い70年前のその中学は夜だったこともありおどろおどろして怖いくらいだったが、母の友人のお父様が校長先生だったとのことで、その名前が記されていた。創立記念碑もたっていたが年代もあっている。
「あぁ、母は確かにここに通っていたんだ」
よくぞ残っていてくれた、と胸が熱くなった。
怖いので歌を歌いながら帰宅したのも納得だった。
畑仕事の方の子守をすると、おにぎりが貰えるので空腹を凌いだという畑もこの辺りだろうか。
毎朝小さな小学生が肩に担ぐ桶で水を沢に汲みに行くのが日課という、その沢はここだろうか…そんな事を思いながら誰も行き交う人のない真っ暗な道を進んだ。
涙がこみ上げて来たが、母に見せようと写真を何枚も撮った。
「ほら、お母さん、黒沢村に行ってきたんだよ、覚えてる?」
と写真を見せる。
「あぁ、何となく…」
とあまり良く見えない目で真剣に見入っていた。
もうその友人も他界されていないと聞いたが、楽しかった思い出も思い出されるといいと思っていた。
「そうだ、お母さん、ここで暮らしている時の林檎の話してくれたよね。もらった林檎をいつまでも亡くなった妹さんに取っておいたら、義母に取られちゃって…その夜妹さんが現れたって話。
あれは本当に現れたのかなぁ」
「覚えてるわよ☺
本当にあらわれたんだと思うわ。
そういう事ってあると思う。」
私は頷いた。
「ありがとうって言いにきてくれたんだね」
"今だ!!言うしか無い!!!"
「お母さん、そんな大変な中、生きてきてくれて、私を産んでくれてありがとう」
"言えた!!"
「いいえ、どういたしまして」
母は少し下を向いて少し微笑んだ。
言えた途端、涙がボロボロ溢れて来た。
「ピピピッ ピピピッ」
そこで非情のタイマーが鳴った。
長い間言えなかった事を言えたこと、ずっと大好きでいつも心配していたこと、若い時は売り言葉に買い言葉で母の躁状態に対して酷い言葉も投げつけたこと、一緒に暮らして母娘の会話をしたかった事、、、もっともっと話したいことはあった。
でも第1段階として生まれ初めて感謝を伝えられた。
「お母さんまた近いうち来るからね」
だけど、本当に近いうちに来ることになるその理由は…(続く)