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昨日は「ちょっと横道」カテゴリーに海バイトの話をした。


 時代が前後して申し訳ないが、今日はその続きから入ろうと思う。 


 海バイトを終えて初の一人暮らしを始めた20歳の私は、
学校が終わるとコンビニのバイトをして食費と寮費を捻出していた。


 たまにパンのスライスの仕事があると大量に出るそのパンの耳をよく貰ってきては、食費を浮かした。

 パンの耳を油で揚げて砂糖をふりかけると正に揚げパン♡ 


他にも卵と牛乳と片栗粉でカスタードクリームを作ってそのまま食したり、お米はお粥にしてかさ増しして食べたりした。


 さつま芋は茹でてマーガリンと牛乳と砂糖を混ぜるだけで、スイートポテト風な味になった。


 部屋は四畳半と半畳もないキッチン。 

まな板をおけるスペースはなく、コンロも一口コンロを探してきた。 

茶碗洗い用に洗面器を買ってきたが、洗い場が小さすぎて入らなく苦笑したのを覚えている。


 トイレは他の二人の寮生と共同、お風呂は無いのて銭湯へ行く。


 私は海バイトを終えてからそのままこの狭い四畳半に向かった。 

 当然テーブルもテレビも何も無い。

海バイトの終わり頃にふとんと枕だけはちゃっかり送っておいた。ふとんさえあれば何とかなるかなぁ、なんて。


海バイトから寮に行く夜道、ファミマに寄ってちょっと贅沢にシュウェップスというオレンジ瓶のジュースを買って、狭い部屋の窓を開け、自立に1人乾杯したのを覚えている。

本当は不安だったが、何とかしなきゃいけないし、せめてもの、かっこつけてみたのだった。


 洋服を置く場所が欲しかったので段ボールに持っていた生成りの布を貼った。 

余った布は、殺風景な砂壁を隠す様にして画鋲で貼り付けた。


 隣の寮生から小さなテレビを格安で譲ってもらった。小型アンテナの位置によって見れた。

 家に居てもどっちみちチャンネル権はなかったので、テレビを見る習慣は無かったので、それほど困らなかった。 


 それより音楽が聞きたいのでラジカセをバイト代で買った。

当時から洋楽が好きで、特にFMヨコハマが聞きたかったが入りが悪く、エアチェックは専らFM東京かFENだった。 

英語は全く聞き取れないし聞いて無かったが、たまに和訳を読むと意外に浅〜い内容だったりして、ほっとした。 


 コンビニバイトは知らぬ人は居ない有名コンビニだった。

当時ディップアイスを売っていて(知っていますか?)冬はカチンコチンに固まって掬いにくかった。


そんな ある日の雪の日、いつものようにストロベリーチーズケーキを必死でかき取っていると


 「◯子」 

と控えめな声。


 見あげると、父と母が立っていた。 


 「ど、どうしたの?」 


 「どうしてるかと思って見に行きたいと言うから…」と父。


 私は周りのお客さんを見回し


 「元気でやってるから大丈夫だよ」 


 そう言って業務に戻った。 


 母は躁状態がおさまると、急に娘思いの優しい母に戻る。 


この日も
「こんな雪の日に◯子は学校もバイトもしながら頑張ってるのか」と切ない思いで会いに来たのだと後から聞いた。


 この時、もう少し感情を込めた優しい言葉、例えば 


 「来てくれたの?ありがとう」


 みたいな事をなんで言えなかったんだろうと改めて考える。


 そもそも、私は自意識過剰な照れ屋だ。


 誰かと話していて心地良い「間」というものが持ちにくい。空白を埋めるように話してしまう。 


それもこれも、気まずい感じがとても耐えられず、照れ屋な性格もあり本音が言えない。 



 ここで、時は母の施設入所中に戻る。 


 あまり長くは生きられないかもと看護師長に告げられ、頻繁に面会に行くようになったが
その短い15分の面会時間の過ごし方にも、その性格は表れる。 


 15分で母を少しでも元気にすることを言わなきゃいけない、でも照れ屋だからまかり間違っても 

 「お母さん大好きだよ」


 なんて言えない。


 それで、孫がこうだとか、皆が会いたがってるだとか、喜びそうな事をてんこもりにして機関銃トークをする。


 母は笑顔で 

「そうなの〜」

 と聞いてくれていた。 


 もっと心の内の声を母に伝えなきゃいけない !

時間はそう長く残されていないのだから、と焦っていた。 


 母の日が近づいていたある日。


 「そうだ、母の日に手作りのフラワーアレンジを持って、今まで言えなかった感謝を言おう」


 そう決めて、あとには戻れない様にインスタグラムにも宣言した。

(続く)