躁状態の母を3回程強制入院させた後、
母の身体はボロボロになり、家族の信頼関係も失われていき
父は「もう入院させない」と決めたのだった。
そして父から打ち出されたニューアイディアとは
「山奥に暮らす」
だった。
父は建築業だったので、ある程度の知識はあった。
山の中の安い別荘地を購入しセルフビルドで家を建てて、躁の酷い時だけ母に住んでもらうという企画。
なるほど!そうすればご近所に大音量の音楽で迷惑をかけることも少なくなるし
何より母は山の中で育ったので大の山好き人間。子供の頃はよく母に付き合って
山散策をしたよなぁ。家庭菜園も山野草の育成も大好きだし、夜な夜な歌い歩きたくてもそんな店は無さそうだし。https://www.instagram.com/reel/Cqm-5rqrFRk/?igsh=MXg0cG5qcWV0ampyNw==
これうまく行くかも!
父は仕事の休みを利用してガンガン着工してゆく。
雨の日も雪の日も。
くぎ打ち機なども無く、全てとんかちで一本一本丁寧に作っていく様は
見ていて楽しそうだったし、夜は月の明かりをたよりに家の構想を書いたり
落ち込んでいた父や私たちにも明るい光が差し込んだ。小さなロフトを作り、そこから星が見える窓をつくり、キッチンでは紅葉が見える位置に窓を、そして憧れの暖炉も作った。そこで好きな煮物を作ってもらおうというわけだ。
夏休みなどは私も子供を連れて、キャンプしながら食事係を担当。もちろん薪を拾うところから。毎食バーベキュー状態で顔が真っ黒になりながら、でも楽しかった。
薪で沸かしたお湯をドラム缶に溜めて五右衛門風呂風に。楽しかったなぁ。
そうして数年かけて母の別荘は完成した。
1DKとロフト。お風呂とトイレも。
玄関のドアは材木をバーナーで焼いて、ビンテージ風に。
母1人で暮らすには十分な広さだった。
住まいから車で二時間半も飛ばせば着く場所だから、たまに私たちも母に会いがてら森林浴をする、いつか子供たちが結婚したりしても孫を連れて遊びに来れる場所になればいい、そう言った父の愛情深さが胸に響いた。うん、そうしよう、そう思った。
Instagramにはあっさり母はハイヒールを長靴に履き替えたと表現したが、実際はあっさりとまでは行かなかった。街中までタクシーで行き、歌える店を力づくで探しあて、数年はちゃっかり歌っていたようだ。ということは父に「お金ちょうだい」コールが止まない。
「またこんな手紙がきたよ」と「金送って」だけの手紙も見せられた。
お父さん、困っていたんだろうなぁ。
なのに一人で全部背負って。私は何の助けも出来なかった。
そんな中、父は自宅のちょっと危ない出窓に腰かけてビールを飲んでいたところ、
転落し、命は取り留めたものの、長いICUを出た頃からせん妄が出始め、そのまま認知症に移行してしまった。(父の事は別テーマにまた書いていきます。)
そういえばある日父にこう言われたのを思い出す。
「もし俺が病気とかで死んでしまったら、お母さんのこと何とかしてやれるか?それだけが俺は心配でな。。」
「大丈夫だよ、そうなったら何とかするから安心して」と私。
偉そうによく言ったものだ。元気を出して欲しかった。
でもそうなってしまった後、山の母に会いに行く回数がどんどん減ってしまった。
会いにいくのはいいが、帰るときにバックミラーにポツンと手を振る小さな母を
直視出来ない。
「うば捨て山」
問題の多い母を山へ捨てていってる気がして涙が止まらなくなる。
もっと幸せにしてあげたかったのに。
それを見たくなくて、また自分自身の問題も出て来て、私は山から遠ざかってしまった。
嘘ついてごめんね、お父さん。
年に一度も顔を見せない親不孝な月日が流れた。
ところが3年前、突然の救急病院からの電話で事態は変わっていった。