「起きなさいッ!」

 

はたきの棒を持って母が立っている。

起きないとその棒で叩かれるのだ。朝の弱い私は急いでベッドから起きて母の攻撃を回避する。

朝ごはんの用意をしないといけないのだ。

 

前回の「母のこと①」ではほっこりする良い想い出を書いたが、そう、母はキャラ変したのだ。

 

両親は頭金を貯めて、私が小学五年生の時、東京から郊外の小さな建売住宅へ引っ越す事にしたのだった。

 

私は前回の極狭誕生会のこともあり、早く友達の呼べる家に引っ越したかったので、転校もウキウキしていた。

トイレも共同トイレ、風呂無し、1畳もないキッチン、6畳二間の古い木造アパート、クラスメートのやんちゃな男子に「お前んち風呂もないのかよ」と笑われた時、何も返せなかった自分が悔しくて、あれから40年経った今でも覚えている。今だったら「で?」「だから?」とか返せると思うと是非どらえもんに協力してもらいたくて仕方がない。デロリアンでも良い。

 

引っ越しする時の車窓の風が気持ち良かったことを今でも覚えている。

ああ、やっとトイレもお風呂も家の外に行かなくていいんだ♪4.5畳だがあこがれのマイルームも貰えるらしい♡友達が来たら、母は美味しいお菓子を持って来てくれるんだろうか♡新しい自分♡

 

 

・・・そんな期待はのっけからはぎ取られた。

 

引っ越した後にすぐ母に言われたのは、ローンが大変だからとにかく節約すること。電気のつけっぱなしは言語道断。お水は急にひねると水道代があがるからゆっくりひねること。トイレは風呂の残り湯を使って流す。洗濯にも残り湯。名冷暖房は一つの部屋のみだつけるから、そこに集まって過ごす様に。当然父の見たいテレビを一緒に見る事になるので、学校で面白かったテレビの話が出ても適当に頷いて話を合わせた。

 

・・・・

「変な家やん。友達呼びにくさ満載やん。すっごく仲良しの子しか呼べないな・・」

・・・

 

それだけならまだ良かった。

母は、家計を助けるのと無農薬の野菜が良いという理由で近所の畑を借り、家庭菜園を始めた。農薬の怖さを新聞で読み、とくと家族員にその必要性を説明し、朝から夕方まで農作業にまっしぐら。

 

・・まぁ、ロハスないい話じゃないとお思いのそこのあなた。まだ先があるんです。

 

母は幼少期から疲れやすく体が弱い。ということは、家庭菜園でエネルギーは遣い果たす。

だから他の家事は長女の私にお願いしますという案が採択さえた。

お願いします?・・いやそれも違う、

 

「私は疎開先で朝から井戸水を汲みに行き、学校以外は農作業をして育ったんだ。もうあなたは大きいんだからそれくらい役に立って当たり前です!」

 

それ以来「当たり前」のこととして私の「お手伝い」は開始された。

朝は家族の朝食作り、学校と部活(運動部)を終えて帰宅すると、庭先に積んである家庭菜園の賜物の泥付きほうれん草などが大きなかごにてんこ盛りに置いてある。これを雨水を貯めた桶で庭にしゃがみこみ泥が無くなるまで一本一本洗ってからでないと家に入ってはいけないルール。

根っこも栄養があるのでそこに泥があってはならないという理由のもと、冬などは指先が鈍磨になるまで洗う。根っこを食べて万が一「ジャリッ」な~んてことはあり得ないのだ。もし友達が前を通っても見えないシャッターの内側で行われたのが唯一の救いだった。

 

それが終わるとやっとキッチンに上がれる。そこでは農作業で疲れ切ったのか母が煙草を吸いながら足を組み椅子に座っていて、何だか偉そうな雰囲気で夕飯のレシピの説明をする。私の食べたい物を作れるわけではない。

夕食を食べ終えると、当然茶碗洗い。これもお察しの通り、お湯はストーブで沸かしたお湯のみ使い、最低限の水で考えながら洗う。出しっぱなしなどしようものなら恐らく例のはたきの棒で叩かれただろう。なので私は背後で何が行われようとしているのかに敏感な能力が身についた。いいことなのか??あ、いいこともあったな。FMを聞きながら家事するのは許されたので、音楽、特に70~80年代の洋楽の楽しさを覚えた。母の目を盗んでカセットテープにエアチェックをしては友達と交換しあった。いつかこの目でライブを見たいなあと思いながら耳だけで楽しんでいた。あ、大好きなジョン・レノンが撃たれたニュースも家事をしながらエフエムで聞いたなぁ。

 

学校の無い日は部活の朝練があろうとも、早起きして洗濯を干し、家じゅうの掃除を母のマイルール通りに実施する。このルールが曲者で、キッチンとトイレに関しては床を掃いたあとで特製クリームで磨き、拭き取らねばならない。その特製クリームとは、なんと次亜塩さんとクレンザー・中性洗剤を混ぜたものだった。これは後になって体に有害だとわかったのだが時は遅し、さんざん実施してはその後の吐き気や頭痛に苛まれていた。「混ぜるな危険!」赤字で書いてあるやつだ。

 

母は潔癖症だったのだろう。有害物質が発生する特製クリームの事は知らずに指示したので虐待ではないのだけど・・・

トイレなどは密室で狭いので一日中肺の中に薬品臭が残っていた。

そのことは後々母に抗議した様な、忘れてしなかった様な。ま、いっか。

そんなことより、

「私無事に高校に行かせてもらえるのかなぁ」

と心配だった。家で勉強する時間があまり取れないから、ただでさえ物覚えの悪い頭脳を持つ私は授業中は必死だった。出来たら心理学系の大学に行きカウンセラーになって辛さを抱えている人の役に立ちたいと漠然と思っていた。友達は「頑張り屋さんだね」「真面目だね」と言ってくれたが、そうでないと私は中卒で寿司屋の二階に住み込みで働く(万が一の時はそう決めていた)事になるのだから。今頑張らないとって。

 

ちなみにその「お手伝い」をして「ありがとう」と喜ばれることはなかった。

戦災孤児で一人で生きてきたからなのか、母にとっては「当たり前」なのだった。

 

「働かざる者食うべからず」は口癖だった。確かにね・・あってるけどさ。

 

せっかく転校先で楽しい学校生活をと期待に溢れていたが、心に暗い影が落ち始めた。「お手伝い」さえ完璧にこなせば部活に行かせてもらえるが、その調子なのでおこずかいは中学生の間は2000円。これで部費や文房具から参考書等学校にかかる出費を払うので友達と買い食いをしたり買い物に行くなんて楽しそうなお誘いは全て断った。部活さえ行かせてもらうのは「自分の好き勝手させてもらってすみません」という気持ちだった。

とある土曜の放課後、クラスメートが「これからママと原宿にいくんだ~」と。雑誌で見たあのクレープも食べるのかなぁ、へぇ・・そんな親子関係もあるんだ、と私にはまったく異次元の世界に思えた。いや、我が家が異次元過ぎて、周りに引かれるといけないので本当に仲良しのたった一人の子にだけ「お手伝い」の呪縛について話した。

 

前回書いた弱々しく優しい母から「強い口調で家事を強要する」母にキャラ変したが、体の弱い母を気遣う自分もまだそこにはいた。

・・いたことはいたが、体力的にも精神的にも納得出来ない家事のさせられ方に何かを頼まれても可愛く「は~い😊」なんて到底言えなかった。

 

野太い声で「はい。」

「もっといい言い方をしなさい!」

更に野太く挑戦的に「ハイ!!」

 

という拉致の空かない押し問答が繰り広げられていた。

 

そうこうしているうちに高校入試の頃から、更に母はバージョンアップを遂げていく。(続く)