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生まれて初めてのブログですが、ブログを書こうと思ったきっかけとなる昨年の「母の死」を通して改めて自分探し、そしてほんの少しでもどなたかの参考になればという思いで書いていこうと思います。

 

まず、母ってどんな人だったのか、「母のこと①」を話したいと思います。 

 

母は8才の時戦災孤児になりました。

3月10日の東京大空襲で自宅の亀戸で被災しました。母は当時風邪をひいていて、空襲警報が鳴った時は夜だったので寝ていて気付かず逃げ遅れ、ご近所さんに「なにやってるの!」と連れられて家族とは別の防空壕に逃げ込みました。そこから更に火の手が上がりどこをどう逃げたか覚えていないそうですが、火の海だった街中を逃げまどい気付いたら亀戸天神の池に浸かっていたそうです。

3月10日と言えば、水に浸かろうとは到底思えない凍える寒さの中、迷わず浸かり命を助けられたとのことでした。

 

そして・・

家族の防空壕は焼夷弾で燃えてしまい、さっきまで一緒にいた5人家族は母以外全員亡くなってしまいました。

たった一晩の出来事でした。

 

 

 

あまりのショックに当時の記憶があまり無いと言っていました。

すさまじい混乱の中、家族の遺体は見つからなかったので、お葬式をしたにもかかわらず、もしかしたら生きているかもしれないとしばらくは受け止めきれなかったそうです。

 

そんな中、母は茨城県と福島県の境辺りの山奥に住む遠い親戚に引き取られます。

その家庭は貧困で、母を引き取った理由は「農作業の手伝い」としてでした。家族全員を一晩で失ったにも関わらず、その心のケアも無いまま、誰も知らない山奥で農作業や子守りのアルバイトをしながら学校へ通っていました。心を閉ざしていたものの、中学に入り合唱部と出会った事で母は歌う事で哀しみを癒す様になりました。真っ暗な山道の下校中も大きな声で歌っていれば怖くなかったと言っていました。(去年私はその山へ行ってみたのですが、お店や街灯もなく、民家もほとんど無く、人にすれ違う事もない真っ暗な山道で、大人の私でもここで車が故障したらと思うと恐怖感の沸く深い山奥でした。よくこんな道を中学生が一人で・・)

 

こんな不思議な事もあったそうです。

育ての叔母さんが珍しく母にりんごをくれたのだそうです。それで、母は可愛がっていた妹の米子ちゃんにいつか会えるかもしれないから、と大事にとっておいた。すると叔母さんは「食べないのなら●●にあげるから」と言って持っていってしまった。黙って我慢してしていたその夜、米子ちゃんが母の目の前に一瞬現れ消えたそうです。

「多分、ありがとうっていう意味だったのかな」と母は嬉しそうに言っていました。

霊感等無い私ですが、この話は本当なんだろうな、と私も思っています。

 

高校に進学させてもらえなかった母は、成人するまでは農作業の担い手として叔父と叔母に育ててもらった感謝を表しました。成人してからは東京に戻り、とはいっても元の亀戸の生家や両親が営んでいた工場も全て親戚に取られてしまい住める所は無くなっていたので(戦争のごたごたの中、相続が不正に行われたのですね・・二次被害ですね。)アパートを借り、化粧品店で働きながらたった一人で生活をスタートしました。お給料のほとんどは育ててくれた茨城の家に送り、月に一度、同僚と映画を見てうどんを食べに行くのが唯一の楽しみだったそうです。

 

そんな中父と出会い私が生まれ、8才の時から失われていた家族が再び出来たのでした。

 

幼少期の私の記憶の中では、金曜ロードショーなるものを毎週部屋を暗くして布団に入って見るのが何より一番楽しい母との想い出です。そういった母の淋しい生い立ちを聞いていたので「禁じられた遊び」等の戦争映画は孤児だった母と重なり胸が締め付けられていました。

「シェーン」「ライムライト」「風と共に去りぬ」「小さな恋のメロディ」等数々の映画を見て多感な私が涙が止まらないのを見て横で「本当に泣き虫ね」と微笑んでいた母。

戻れるならあの頃に戻りたいなあ。

 

母は、とてもおとなしく、静かな人でした。

おとなしすぎて、元気が無さそうに見える日は心配な位でした。子供ながらに「私が母を幸せにしてあげないと」なんて偉そうな事を思っていたように思います。

それで、学校のテストもクラス委員も母の喜ぶ顔が見たくて頑張ったんだろうなぁ。

 

私が4才頃のある日の夕方、夕日の差し込むアパートの一室で母と洗濯物を畳んでいる時の事。

「赤ちゃんが生まれるのよ」と嬉しそうに教えてくれました。

その時思ったことは、「母が嬉しそうだ!良かった」ということと

そして赤ちゃんが生まれる、、ってことはこの淋しそうな母の事を守れる子供がもう一人増える!という事でした。

そして、父が仕事で不在がちだったので、二人きりの家庭に少し寂しさを思っていた私にも「新たな家族が増える♪」というほっとした気持ち。

この差し込んでくる夕日と共に忘れられない想い出のワンシーンなのです。

その後まもなく弟は生まれ、元気にやんちゃに時に姉を困らせながらも淋しかった家族に明るい光を放ってくれたのでした。

 

アパート暮らしだったので夜は三人で銭湯に通いましたが、アパートの前の道で「ろく虫」(知ってますか?)やゴム弾をして遊んでいると、夕日を背に母が銭湯セットを持って迎えに来ます。近所の子たちとバイバイして「今日はこんなことがあった」等話しながらの道中。銭湯では押していないと止まってしまう水栓、たまに赤ちゃんの排泄物が浮いていてぎょっとするものの、ちょっと熱めで深い浴槽に入ると大人になった気分に。〇メロンシャンプーのいい香り。湯上りはシッカロールで真っ白にされている弟。いい香り。コーヒー牛乳を飲みたいけれどお財布を気にして頼めず、じっと眺める。帰り道は真っ暗夜道。まだ2歳くらいのやんちゃな弟がパタパタと先に走っていってしまうので慌てて追いかける、そんな夢を未だに見るんですよね。

 

母ってすごいなって思った事もあります。

 

私の幼稚園の運動会でのこと。昼食時、当時は親子や仲良し同士でシートを広げて園児と一緒にお弁当を食べるという、ある意味残酷な昼食方法が取られていたんですよね。だって親御さんが来れない子、いや親御さんが居ない子だっているわけですもんね、さすがに今はあまりそういう無神経な方法は無い様に思いますが、当時のその昼食時のことです。母は、近所のアパートの仲間とシートを広げようとしていたその時、ふと横に目をやると母一人子一人で小さなシートを広げて膝を突き合わせて食べていたのが見えました。その子は周りをキョロキョロみながら恥ずかしそうに私には見えました。その時にいつもおとなしいはずの母はさっと立って「一緒に食べてもらえませんか?」とその親子に声をかけました。こちらの気持ちを受け取ってくれたその親子は一緒に食べることになったのですが、良かったと思うと同時に「お母さんって普段ものおじしているのにこういう時勇気あるな」「もし断られても毅然としていたんだろうな」と子供ながらに驚いたんですよね。

 

似たようなことで、こんな事もありました。

小学校1年生になるとお金持のクラスメートは盛大に誕生日会を開くんですよね。それにお呼ばれされるとそれなりにプレゼントを用意して行き、お返しのプレゼントをもらって帰ってくるのですが、毎回家計を圧迫するんじゃないかと正直呼ばれる度に億劫な気持ちでした。その後、私の誕生日会もしないとならない雰囲気になっちゃったのです。狭い2間だけのアパート。お金だって切り詰めているのを知っているので言えないでいたら、母はこう言うんです。

 

「クラスの子全員呼びなさい。安いケーキしか買えないけど、皆でケーキを食べましょう。そしてプレゼントは無し!お返しも無しでね。」と。

 

やりました、本当に。当時〇士家にゼリーケーキという安いケーキがあったのですが、(ご存じの方いますか?)上半分はフルーツゼリーで下半分はスポンジのみ。生クリームは全く乗っていないホールケーキを2コ用意してくれて、コップはミニコップを人数分買って用意してくれていました。誕生日会自体はとにかく成功することだけを想っていたので、部屋が狭かったこと以外記憶にないのですが、嫌みを言う子もなく、母プレゼンの一度限りのその新型誕生会は滞りなく終えられたのでした。

「呼ばれる子」「呼ばれない子」がいる事が嫌だったのでしょうね。そして贅沢な誕生会をする事にも抵抗があったのだと。そのコンセプトは娘への最高のプレゼントでした。

 

良い思い出を長々と語りましたが、次回は私がヤングケアラーになったいきさつや新たなる母のステージについてお話したいと思います。

 

長文読んで下さってありがとうございます。