弟橘姫とヤマトタケルの説話
ウィキペディアに書かれているのを抜粋しました。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
『弟橘媛(おとたちばなひめ)は、日本武尊(倭建命)の妃』
『相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。時の人は、その海を名づけて、馳水といった。こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。
現在の東京湾沿岸の袖ケ浦市と習志野市に袖ヶ浦という地名があるが、これは弟橘媛の着物の袖が流れ着いたという伝説から名付けられた地名だといわれる。右と左の袖のうち、片方が袖ケ浦市に、もう一方が習志野市に流れ着いたともされる。』
・・・・・・これらの説話は正しいのだろうか?・・・・・・
ヤマトタケルには妻は一人、妃は5人いたと書かれています。まあ、他にも側女はたくさんいたのだろうし、行く先々で豪族の長の娘をものにしていたのでしょうね?それはそこの豪族を支配下に置くための手段でもありますね。
静岡県清水市に仕事で行った時に草薙という地名がありました。タクシーの運転手に、「ここの草薙という地名はあのヤマトタケルの草薙の剣と関係があのるですか?」と聞いたら、ここがその場所だと。今の清水市がそういう神話の場所とは知らなかった。
後から地元出身の人に聞くと、弟橘の姫は草薙の人でヤマトタケルがものにして連れて行ったと。???
古事記に書かれている話しと違う!
で、考えた。上記の弟橘姫の話しは本当だろうか?そんなことあり得るのだろうか?と。
書かれている歴史というのは為政者を正当化するために書かれているので本当の事は書かれていないと考えた方が正しい。
もし、弟橘姫を今の草薙から連れて行ったとしたら、弟橘姫が海を鎮めるために自ら身を投げたとは考えられない。知り合って間もない男のために女は死ねない。知り合って長くても女は男のためには死なない。女が男のために死んだ事例なんかあるのかな?あるのかも知れないけど、そんな事例は私は思い出せない。
ヤマトタケルが戦の旅の慰みに弟橘姫を連れて行ったとして、途中で海が荒れた。そうすると船に乗っている兵士達から、「戦船(いくさぶね)に女を乗せたから海の神が怒っているんだ!」と不平、不満、怨嗟のヒソヒソ声がヤマトタケルの耳に聞こえて来た。
弟橘姫は船酔いで、船縁でゲーゲー吐いている。
そこで、ヤマトタケルは弟橘姫を海神への生け贄として後ろから抱えて荒れる海に投げ捨てた。
大和朝廷としては、ヤマトタケルが女を海に投げ捨てたとは歴史に残せない。それで弟橘姫がヤマトタケルのために自ら身を投げたと伝えることにした。ヤマトタケルは奈良(都)への帰途、滋賀県伊吹山で病になり三重県亀山市能褒野で死んだと。
ヤマトタケルは荒々しい性格なので、ヤマトタケルとその軍隊を都に入れる訳にはいかない。都を守っている軍隊ではヤマトタケルの軍隊に太刀打ちできない。それでヤマトタケルが都に入る前に、都からの迎えの使者が伊吹山まで出向き、彼を暗殺のために毒を盛ったと考えるのが妥当ですね。
その際に弟橘姫の怨念が働いたと考えることは可能ですね。それとも海に投げ捨てられた弟橘姫があの世から呪い殺した?すなわち祟りかも?
その怨念を鎮めるために弟橘姫の出自とかストーリを作り上げ、神社も建てた。かも?それは歴史ど素人の私の仮説です。