何だこりゃ?なタイトルだと思います。

 

 最近の夫婦の日常を書いていこうと思ったのですが、まずは昔の事を書かないと始まらないと思えたので、奥さんに惚れたいきさつを書いていきます。

 スーパーサイ○人に惚れたのですよ。

 

 ちなみに長文です。以前機会があって書いたものを加筆修正して2回に分けて載せております。

 それでは前半、スタート!

 

 

 私の奥さんは『アスペルガー症候群』です。ADHDもあり、衝動性も強いです。

 何より幼少期より、そういった発達障害の特性を理解できなかった両親、祖母の虐待により、二次障害を併発。アダルトチルドレン、鬱病、覆すことのできない自己否定感。自殺未遂も何度かしており、そちらの方が大きな障害となっております。

 さてさて、そんな奥さんを持って早13年。奥さんの生い立ちと境遇に憤りを持ったことが一つのきっかけで、「発達障害児のケア施設を作りたいね」と夫婦で夢を持って邁進している今日この頃です。

 奥さんの暗い過去を鬱々と書いたところで、気持ちのいいものではありません。なので少し違う視点から書きます。

 もう数年前になります。戦後最悪と言われた、ある事件が起きました。『やまゆり園』事件です。

 その報道の中に、一般の(障害者と普段関わりを持たない方でしょう)方からこんな言葉が出ていたのを覚えています。

 

『生産性のない障害者に生きる価値はあるのか?』

 

 わからなくもない理屈です。彼らに文字通りの生産性は、ほぼありません。

 彼らは生きる上で、人の手を借りなければ何もできない。そんな障害者でした。

 

『障害者は気持ち悪い。傍にいてほしくない』

 

 見た目に分る障害者は、健常者には醜く映るかもしれません。

 では、彼らに存在する価値はありませんか?

 障害は存在を否定するものですか?

 私の奥さんも障害者です。障害を持たないとされている方、(ここでは多数派と表現させていただきます)と見た目では何も変わりません。しかし、発達障害の認定を受け、少数派に属す人です。

 奥さんはその性質から、計画性というものがありません。計画を立てられないのではなく、根本から多数派に比べ、計画性が無いのです。

 夫の私の許可を得ずに、心理カウンセラーの勉強をしたいと借金をした額、300万円。おかげで家計は火の車(返済が自分の手に負えなくなり、隠しておけなくなったために、ある日突然300万の借用書と共に告白されました。人間こういう時は笑うしかないものです。実際私は笑いました。

 この事は、LD計算障害と共に、アダルトチルドレンが複雑に絡み合った結果だと私は分析しています。)。

 普段の生活の中でも、給料日まであと1週間で、手持ちの現金が1万円という状況のとき、3日で1万使いきり、残りの4日、どうするの?という事が、日常茶飯事。

 お金を無計画に使用してしまう。という観点だけを見るなら、奥さんに生産性はありません。

 では私の奥さんは、存在価値が無いのか?

 そんなわけあるかい!私の奥さんは、ただ”お金”の重要性が、”今必要なモノ”より低いだけにすぎません。つまり考え方の軸が違うのです。『お金<<<魂、家族、子どもが必要なモノ』なのです。

 これは、生産性ではないのです。

 これは、創造性なんです。

 

 創造性において、奥さんが多数派の人間を遥かに凌駕する力を発揮した事があります。 

 今でもはっきりと覚えています。それは、私の人生のターニングポイントとなりました。

 

 それを目の当たりにしたのは、私達がまだ結婚する前の事でした。私たちは若かりし頃、役者に憧れ、幾つもの舞台を踏んで、青春を謳歌しておりました。

 奥さんは私のいた劇団の後輩でした。年は私より上でしたが、入団時期が遅かったために後輩として共に舞台を作っていました。

 当初は有能な女優で、先輩の私を凄まじいスピードで抜き去っていくと思われるほどの演技力や、業界内の愛されキャラを持ち、もしかしたら芸能界で女優として花を咲かせるのではないか?と噂されておりました。

 しかし突然のドクターストップが、彼女の全てを反転させてしまいました。

 卵巣のう腫。その手術の為に、腹部を切開。手術は成功し、経過も良好でした。しかしその術後から、目も当てられない鬱症状があらわれました。

 それまでは水を得た魚の様な活躍を見せていた奥さんでしたが、切開した場所が悪すぎました。『丹田』と呼ばれる重要な部位の、中心です。全身を支える中心でもあり、あらゆるダンス、武道、スポーツにしても、ここを切るとまったく動けなくなります。それほどに表現者にとって重要な位置。それに、丹田はオーラを司る部位でもあります。

 これは私が考える仮定なので、本当のところは誰もわかりません。奥さんのそれまでに無意識に蓄積していたストレスが、手術を期に爆発したとも考えられます。

 ともあれ、鬱病となった彼女は演技が全くできなくなってしまいました。輝くほどの愛されキャラだったにもかかわらず、本人の中で何かが一つ狂い、その為に連鎖的に悪い事が重なり、自分に対する他人の反応が怖く、不快に思われることに戦慄してしまう。そんな負の思考に完全に囚われてしまいました。

 まさに目を覆いたくなる逆転でした。人はたった一つのきっかけで、こうもその性質を反転させてしまうのかと思いました。

 今思えば、発達障害を有す彼女ならば、わかる話です。アスペルガーの性質を持つ人は、物事を0か100で捉えてしまう性質があります。黒か白しかないのです。妥協もなければ、及第点も彼女の中にはありません。おそらくその性質により、彼女が人生をかけて挑んでいた女優という仕事×演技が出来なくなった自分=無価値(鬱)だったのでしょう。

 当時の彼女は本当に何をやらせてもダメが出るようになりました。本人が望んでいなくとも仲間の足を引っ張ってしまったり、そのため他人の怒りを買い、今度は発言するだけで、行動するだけで不協和音を醸すようになりました。

 この時はすでに、私たちは付き合い、同棲をする中でした。調子のよかった頃の彼女を知っている私は、これほどの変わりように彼女とはもうダメかな…と考えるようになっていました。

 当時の私には、彼女の精神状態やその背景を推察するほどの知識も頭も無かったのです。

 そんな時期に私たちの最終公演がありました。最終公演なのは、この後に奥さんのお腹に赤ちゃんがいる事が分って、劇団を辞めたからです。

 この最終公演の稽古も、奥さんはボロボロでした。

 本来ならば、とても演技が出来る精神状態ではないのです。今の私が当時の彼女を見たら、間違いなく療養、休息を長期間とらせます。だって一歩間違えれば、彼女は衝動的に首を括る可能性も否定できないほどの、極限状態だったでしょうから。

 そんな状態で芝居をしても、満足のいく演技など出来るわけがない。演出の求める演技、そんなものは一切出来ず、奥さんはダメ出しの嵐を食らっていました。

 家に帰っても、私と彼女の間は不仲です。鬱の彼女に苛立ち、心ない言葉を投げかけ、彼女を絶望させる。私も若く、無知で、自分の与えられた役に精一杯だったということもあります。しかし今考えればひどい。

 当時私は、自分と夫婦役だった外部から来た女優の子といい仲になっていました。

 最低な男です。

 しかし、そんなバカな私の目を、奥さんは開かせてくれました。

 『障害』は、才能をはらんでいると、確信した出来事です。

 それは舞台本番中におきました。

 

 

                                         次回、続きです。