2010年4月25日(日)
この上ない山日和ですね~:)
カトラのニリンソウもそろそろでしょうか?

滝も爽やか~♪
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ニリンソウはまだ咲き始めたばかり
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代わりにジロボウエンゴサクが満開でした。

山頂に寄ってカタクリ見物にでも行きましょう!
「あらら~・・・、みんな居眠りしてるやないの。。。」
暫く待ってやっと一輪
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さぁ、また登り返して大日岳→山頂経由でタカハタ谷の新緑を見に行きましょう!
杉木立が美しい。
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透き通るツツジがとても綺麗です。
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そしてタカハタ谷の眩しいくらいの新緑ヽ(*^o^*)丿
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木漏れ日が心地よい。
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爽やかな春の金剛山にありがとう。
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人それぞれ、その人その人の人生がある。
自らの努力で素晴らしい企業で生涯活躍される人。
公務に就かれる人。
起業される人。
家業を継がれる人。
スポーツ界や芸能界で成功される人。

当然、私にも今まで積み上げてきた人生がある。
しかしそれは平々凡々と言えるものではない。けど今まで自分が精一杯やってきたとは言えないと思う。
私が18歳の4月1日、それは大学に籍をおくことになった日である。
その日も私は測量アシスタントのアルバイトをしていて現場から会社に戻る車中だった。
夕方6時頃と思います。相棒のポケベルが鳴った。
相棒は会社へ公衆電話を使って連絡を入れる。
戻ってくる表情が硬い。
私に「親父さん、倒れて病院へ運ばれたそうだ。」と。
父親はその1年ほど前に脳血栓を患い、またいつ血管が切れるか分からない状態だった。
その心配が的中していた。
49歳の誕生日目前の突然の出来事。
病院へ着いたら正面玄関で叔母さんが待っていてくれて「○○、遅かったよ。」と。
父の体はまだ温かかった。けど二度と私に話しかけてくれることはなかった。
処置室の中で弟達が呆然と立っていた。
この日の出来事を私はこの先も決して忘れることはないであろう。
親父は死を持って私に最後の教えをくれたのだと思う。

よくよく考えた後に経済的にも非常に無理があるであろうと大学に退学願いを提出した。

そしてアルバイトをしていた会社に就職して測量を4年。
残念ながら収入面に大きな障害があり、何とか良い職に就かねば!と
大手ベアリングメーカーの100%出資子会社に転職することが出来ました。
そしてめでたくママリンと結婚。
当然の如く、大卒と高卒では扱いが違う。
当たり前のことだが現場の第一線に投入された。
けど自分自身の決断で大学を諦めた。
だから大卒には決して負けたくなかった。
もちろん、有名な看板もある会社。
生涯この会社で働くつもりだった。
がむしゃらに働きました。
そして自らが希望する職務を任せてもらうことが出来た。

しかし「人生山あり谷あり」とは良く言ったもので丁度40歳という時にバブル崩壊による不況で世の中にはリストラという嵐が吹き荒れていた。
夢にも思わなかった「会社解散」という事態が待ち受けていた。

その後、直ぐに自らが再就職先を見つけ出すが、世の中色々ある。
込み入ったことは差し控えますが、私に受け入れられる会社ではなかった。
6年の月日が流れ、今の会社に移った。

正直なお話。
私は今、人生の断崖絶壁に立っている。
生きていく為のルートファインディングが必要なのだ。
もちろん、仕事は誠心誠意最大限の努力を怠りません。
けどサラリーマンである以上、いくら努力をしても決して贅沢が出来るものではない。
これは今まで自らが選択してきた結果であって全ては己の責任である。

幸いなことに平凡な暮らしをしていれば考え付きもしないだろうが、どこの企業でも同じことと思うのは「企業活動というものはニーズに応えるサービスを提供することによって利益を得ている。」ということだ。
これは個人においても同じことで企業と同じことを規模こそ違えど個人でも出来るはずだ。

この歳まで生きてきて疚しいことや軽はずみなことには絶対に手は出さない。
けどシッカリと勉強をして我が家として第二の柱を立てる必要がある。
そしてそれは求める側、提供する側共に喜べるものであることが大切だ。

今はまだまだ情報収集の段階であるが、これから更に加速する少子高齢化時代に備える為にも一歩一歩着実に進めて行ければと考えます。

そんなこんなでちょっと勉強に時間をシフトしようと思ってますので、こちらが若干おろそかになってしまうかも分かりませんがお許し下さいね。