俺は結局、「外形的な事実で判断する」という法的な検討のプロセスそのものに大きな誤りがあるのだと思っている。

 

このプロセスは一見、表現の自由の侵害から十分逃れられるように見せておきながら、実は一方の(外形を見る側の)思い込みを尊重した結果、間違いなく他方の内心を無視することになっているからだ。

 

外形とはまさに、内心による表現の形と現れそのものであり、それらを完全に切り離すことなど出来るはずがないだろう。

 

他者が勝手に人の内心に踏み込むことにもなり兼ねないこのプロセス自体が、おのずから法的に定義されたハラスメントの外形を纏っていると考えるべきではないのか。

 

今日の「なんでもかんでもハラスメント」とされる論理は、いかにも国旗損壊罪の成り立ちに似ている。

 

もちろん、それが個人の尊厳を守るのか国家の尊厳を守るのかという点において、両者が違っているのは確かだ。

 

しかし、結局誰かの内心の自由を無視するに至るリスクを孕むという点においては、実はほとんど差が無いのである。

 

プライバシーの保護なくして内心の自由は語れず、内心の自由なくして外形的評価など、決して語りようがない。

 

「外形的な事実で判断する」などというのは、見てくれを「正義」をもって吟味すれば、必ず本質を暴けると断定しているという意味において、この上なく傲慢なハラスメントの結晶でしかないのだよ。