まったく同感だ。ひろゆきのこの見方に100%同意する。
ひろゆき氏は「真実と実態がわからないから一般論として」と前置きし「子どもの行動により、親の仕事を奪う事態が起きた時に、子どもの行動が間違いと判明したら、親の仕事を元に戻したほうがいいと思う」とつづった。
さらに「間違いだとわかったら、反省させ、元に戻し、成長する機会を与えるのが教育。子どもが間違いを犯せない社会は良くない」と続けた。
さらに言うなら、ワケのわからない外野が問題をつついてこじらせるような社会は良く無い。
批判の矛先は何らかの「主張」に対してのみ、と、各々自ら限定すべきだろう。
他人の「間違い」を叩き合う不寛容な世の中は誰のためにもならない。
ただし、家庭内暴力をどう取り扱うか?という点については、極めて難しいとしか言いようがない。
「暴力」の基準にしろ、それが行き過ぎた結果「死」に至らしめる実例が後を絶たぬ事情からも、決して雑に扱う訳には行かないのだ。
それゆえ一般論としてではなく、阿部慎之助の辞任については、正直止むを得ないところがあると思う。彼が取らされているのは親子間の暴力に対する責任というよりも、社会的地位に鑑みての責任である。
その意味で改めて思うのだが、アクシデントというのは本当に恐ろしいものだなぁと・・・
「決して暴力を容認してるわけじゃない」と言う志らくは「娘さんはまだ18歳でしょ? 娘をまず第一に考えないと」と主張した。
「このまんまお父さんが、自分がちょっとケンカして児童相談所に電話して逮捕された。父親の仕事がなくなっちゃった。ただの仕事じゃないよ。父親の大好きな野球を人生から奪っちゃった。娘さん、そう思ったら、これ立ち直れないよ。阿部監督の娘さんを救うためにも!」
この志らくの意見もひろゆきの主張とシンクロしていて、個人的にはとても共感を覚える。子供の間違いを容赦する寛容さを、その親である阿部慎之助を「排除しない」という寛容さに求めている。
これらの意見には、あくまで親子という「個人の繋がり」にどこまで「社会」が割って入って良いのかという、ある意味ソフトでナイーブな見方が含まれている。
常にその感覚で見ることが出来るならそれが一番いいに決まってるが、しかし一方で、割って入らなかったからこその悲劇も頻繁に起きているのが事実な訳で、だから社会としては必然的に「もっとドライに」処理されなければならないということになる。
残念ながら、一般論では収まらないケースがあるのは否定できない。

