キクチ先生さんのこの投稿、うっかり見逃していてやっと今読んだ・・・orz
コメントしようかと思ったのだが、長くなりそうなのでリブログさせていただく。
>違いは、「法と情緒、どちらを優先するか」
いやもう、まったくもってw
そのたった一言で終わるというw
良くも悪くもメディアは規律と秩序のもとに情報を扱おうとするが、SNSは自由で無秩序だ。一般に「オールドメディア > SNS」(※訂正)「オールドメディア < SNS」の主張は、このメディアの「良くも悪くも」な所を、おしなべて欠点と見做すものだと言える。
「法による縛りは返って足かせになる」という思考はそれと似たもののように思える。社会には法を超えた絶対的正義があり、仮に多数決すれば必ずそれが支持されるに違いないという幻想的信念だ。今日、自由と解放に根差していたはずの民主主義体制が世界的に後退している理由は、まさにそういう所にあるのかも知れない。
わが国における民主主義がなんちゃってなのは、元々規律や秩序よりもそうした絶対性に救いを求める者が多いからだろう。昔から偉人といえば信長や家康だ。遠山の金さんや暴れん坊将軍が限りなき善人・正義の行使者として崇められるのだからモノホンである。権力というものが如何に「自分に対して優しいか」を噛み締めながら生きている、そういう民族なのだ。
だから民主化という絶対的正義も、ただ革命に依るものであるばかりか、たとえ国家的テロに依ってでも実現されるべきであると、違いのわからない男たちは当然のごとく信じて疑わないワケである。
元来、民主主義は絶対的正義・絶対的権力へのアンチテーゼとして、「権力の分立」「国民主権」「自由と権利の保障」「法の支配」といったいくつもの柱から成り立つ理念なはずなのだが、そんなこと、彼らは全く意に介さない。
それは強権の行使によって実現される民主体制が、今まさに我々が享受している「なんちゃって民主主義」そのものだからなのだろう。
だが民主主義的な法の縛りがいよいよメンドクサくなった彼らは、もうとっくに憧れを抱き始めているのだ。中露北のような「強権がシンプルに正義を語れる」世界観に。そして「法の支配」ではなく、「人の支配」による正義の執行に。
SNSの無秩序さにこそ真実が潜んでいるという考えは、その憧れと少しも矛盾しない。権力による規律と秩序の破壊を堂々と肯定する彼らならではの、まばゆいばかりの輝きだ。
その美しさたるや、まさに幻想的ですらある。