俺はもうずっと前から、自分の考えが世間とは大きくかけ離れているのを重々承知でいる。それは俺があらゆる物事をそう簡単には信用しない体質だからであって・・・いやいや、体質などという言葉で誤魔化すのは違うなw いわゆる記号論理学的に命題の真偽を厳密に組み合わせて思考するクセがついているからだと、ちゃんと言っておこう。俺はソフトウェア工学の技術者として、膨大な論理計算の集合体を構築する作業に長年従事して来ているのだからそんなの当然と言えば当然なのだが、それは裏を返せば、世間の人々がものごとをあまりに曖昧に考えている様子を見ながら歯がゆい思いで生きてきたこの数十年だったとも言える。そして今、例のフジテレビ問題について、まさにその思いが爆発する自分を感じている。
断っておくが、俺は決して「性暴力を容認するな!」というこの時代の大方針に異を唱えるつもりはまったくない。最初から俺が危惧している対象は、「曖昧な情報をもって断定的な物言いをすることの普遍的な危うさ」に関してのみだ。特にこの一件のように「人の罪深さ」を盛大に掘り返す作業に至っては、「如何に真実に迫れるか」が最も重要であり、仮に「入手した情報に曖昧さが含まれている」と客観的に判断され得る場合は、それらを最大限「判断の基準」から遠ざけておこうとする誠実さが担保されなければならないと考える。万が一そうでないとすれば、結論を構築する過程においてあらゆる判断が特定の恣意性を持った憶測に浸潤されるというリスクを、誰もが甘んじて受け入れることにならざるを得ないからだ。だから俺は、目の前の問題が果たして性暴力であろうがなかろうが、曖昧な情報を曖昧なままで結論の導出に結び付けようとする行為には断固反対する。
第三者委が公表した結論はまったくもって予想どおりのものだった。俺は一読して週刊誌報道の追認だと感じた。結局、示談で課せられた守秘義務の解除は中居の側から拒否され、「その部屋に入ってから出るまでに起きた物理的な事実」については一切ヒアリングも出来なかったそうだ。にもかかわらず第三者委はそこに紛れもなく性暴力があったことと、加えてその性暴力がフジテレビの業務の延長上にあったものであることを確認できたのだという。
第三者委は個々の社員による直接的な証言や、フォレンジック(によるものなのか知らんが)で復活させたLINEのやりとり等さまざまな状況証拠に照らして結論を導いているのだが、肝心の「現場となった部屋」における当事者のやりとりについて一切の情報も持ち合わせず、その前後の状況証拠のみで「業務の延長線上における性暴力」と断じる裁量を、報告書を読む側が無条件に肯定するというのは果たしていかがなものなのか。
決定的な場面に関して「見ず、聞かず、確認せず」のまま状況証拠のみ採用して結論まで持って行くプロセスというのは、たとえばこんな状況を生みだす元凶にもなる。
もちろん、中居の場合はこの動画のような冤罪では決してない。2人の間に「何か」があったことは彼自身が認めており、そこまでは状況証拠だけで認定可能なのも確かだろう。俺が問題だと言いたいのは、その「何か」を、「性暴力」という非常に守備範囲の広い言葉に包みつつ、それがフジテレビの業務の一部に最初から組み込まれていたなどと連続性までをも示すほどに、憶測の範疇を超えて事実として認定することの危うさについてなのだ。「助長する雰囲気があった」みたいなことを言うのだが、そんな「雰囲気」のようなものと、現場で起きたはずだが確かな情報の無い「何か」といった相互に曖昧なものとを、直接結びつけてまとまったストーリーのように語るのは極めて乱暴ではないかということだ。
その点について疑義を抱く者が、今わかっている範囲で俺以外にもう一人居た。
第三者委員会の調査報告書の内容をめぐり、ある言葉を「ものすごく粗い。雑だなと思う」と、私見を口にした。
なんだよ、また橋下かよ・・・orz まるで俺が橋下を追っているみたいじゃねーか!
マジで間違えられたら困るから言っとくが、俺全然橋下信者なんかじゃねーからなw
たまたま意見が合ってるだけだよ、たまたまな!w
第三者委員会の調査報告書では、中居氏と女性Aさんのトラブルをめぐり、「業務の延長線上における性暴力であったと認められる」として、Aさんが中居氏による性暴力の被害を受けたと認定した。橋下氏はこの点に触れ「いちばんの重要なポイントだと思うのは、『性暴力』という言葉の使い方。これはものすごい粗いな、雑だなと僕は思っています」と述べた。
「WHO(世界保健機関)の基準で、性暴力だというふうに認定したんですが、今、我々の日本社会の一般社会で、この基準で、すべてが性暴力と語られているかというと、僕はそこに違和感を覚えます」とも口にした。
しかしながら、この点において俺はまったく橋下と同意見なのだ。(もちろんWHOの基準というのはあって、これも元記事に含まれるから後で引用するが)俺が第三者委の結論に対して強烈に違和感を覚えるのは、密室での当事者間の言動にかかるあらゆる可能性を、非常に単純に「性暴力」という粗い言葉でくくった上で、「しかし『その部屋に入ってから出るまで』については我々ヒアリングしてません。実際に何があったかは読む人のご想像にお任せします。」的なノリを披露し、実際に「性暴力」という言葉が指す具体的な事象が、読み手の想像力の中で無限に広がって行くのを安易に容認してしまっている点だ。これはまったくもって橋下の言うとおり、「粗いな、雑だな」としか言いようが無いと思う。
昔も今も変わりなく、男女間のコミュニケーションは総じてデリケートでセンシティブなものだ。コミュ症は恋愛出来ない!とかいう手垢っぽい言い方はアレだがまんざらでもない。互いに心の機微を読み取るスキルが無ければ発展性に乏しく、さらに一歩間違えれば犯罪の世界に踏み入ってしまうことになるのだから、常にアブナイ橋を渡る覚悟を要求される試みなのだ。不同意性交という言葉が示すとおり、最近では「同意」の確認が真っ先に求められる。「そんな野暮な!昔は無かったぞ」なんて言ってもいられないのは、それが相手のためと言うより、自分を守るための手続きだからに他ならない。
だがそれよりもっと厄介なのは、男女間に圧倒的に力の(権力の)格差があった場合、一見互いに「同意あり」に思えたとしても、実は「仕方なく」だった、なんてことが後になってから明らかになる可能性があるということだ。たとえその場においては決して暴力的な行為があった訳でも無く、明確に拒否されたわけでもなく、実際に性交が行われたかどうかにも関係なく、最初から最後までまるで穏やかな時間が流れていたとしても、それが後になって全然そうじゃなかった!なんてことになりかねないということなのだ。それを明示しているのが、WHOによる性暴力の基準だ。
第三者委は調査報告書で、性暴力の定義についてWHOが公表しているものに準拠したとしている。WHOでは「強制力を用いたあらゆる性的な行為、性的な行為を求める試み、望まない性的な発言や誘い、売春、その他個人の性に向けられた行為をいい、被害者との関係性を問わず、家庭や職場を含むあらゆる環境で起こり得るものである。また、この定義における『強制力』とは、有形力に限らず、心理的な威圧、ゆすり、その他脅しが含まれるものでその強制力の程度は問題とならない」と定義している。
この定義を読む限り、明らかに強姦と呼べるものから昭和のジジイ的な卑猥な冗談まで、性にかかわるあらゆる言動が「性暴力」の範疇に収まることになる。もっとも、元は英語なのだから「Sexual Violence」なのだろうし、その訳として「性暴力」が当て嵌められているのだろうが、そこにはニュアンスの違いや法的・実務的な取り扱いの差も明確に存在する。例えば「全国女性シェルターネット」のサイトでは「性暴力」がこんな風に説明されている。
性暴力とは望まない、合意していない性的な行為すべてのことです。
「性暴力」と、警察で扱う「性犯罪」とは必ずしも同じとは限りません。現在の日本の法律で性犯罪として扱われるものは、性暴力被害のごく一部です。
このように「言葉の定義」をきちんと見つめてみると、例え冗談であってもエロい話をしたらそれだけで性暴力にもなり得る訳で、それと強姦のような凶悪犯罪をひとくくりにして語るのは元からして粗い、と言える。少なくとも「人の罪深さ」を語るうえでは「性暴力なのかどうか」への言及よりも、「性犯罪なのかどうか」を明確にすることの方が格段に「真の意味で人権に配慮することになる」はずだ。
もう一度言っておくが、中居が冤罪でないことだけは確実だ。そこには何かしらの加害があり、被害者の処罰感情も尋常ではない。同様にフジテレビも被害者に対する対応を間違えたとして責められるのも当然で、やはり被害者が持つ処罰感情は強大だ。橋下もそのことは認めている。が、それにしても、第三者委のこの結論の粗さはどうしても目立つというわけだ。
橋下氏は「中居さんは責められる、フジテレビも責められることは間違いない」とした上で「性暴力については段階がある」として、刑法で性暴力と認められるケースが改正前と後で変わってきた内容に触れながら「さらに、一見、同意があるように見える、拒絶はしていないけど権力格差がある場合、まさに今回の場合ですよ。中居さんの方がかなり強く被害者の方が弱い立場には、一見拒否はしていないようにも見えるけれど、権力格差があった場合でもこれも、性犯罪として認めていこうと」と指摘。「性暴力についての3つのレベルがあるので、調査報告書でしっかり、どのレベルなのかを認定しないと、女性に対する人権侵害はそうなんですが、粗く『性暴力』という言葉をポーンと使ってしまうと、僕は、中居さん側に対しても人権侵害になると思います」とも指摘した。
密室で実際に起きたことについて第三者委は何も知り得ていないにもかかわらず、「性暴力」という広大な守備範囲の言葉を使用することにより、その実態が、言葉の定義中最大の凶悪性を持つ不同意性交(強姦)なのだと読者に断定される余地を与えている、それがこの第三者委結論の危うさだということだ。
では、実際のところ中居正広は性犯罪者なのか?犯罪者ではないのか?
それは前述の「性暴力だからといって性犯罪とは限らない」という言葉の定義からも明らかなとおり、示談にかかる守秘義務をこじ開けることのできなかった第三者委には、それを推測する能力すら備わっていないのだ。橋下の言う「どのレベルなのかを認定しないと」という課題に対しても、第三者委は決定的な事実を知らないのだから応えられる訳がない。
この国の社会が法治主義で成り立っている以上、それが犯罪かどうかを検討するには必然的に法的手続きを経なければならない。しかし、これだけ世間を騒がせた一大事において「第三者委」という一見大仰な組織が、「性暴力」なる言葉を暗に「性犯罪」の意味を匂わせるような形で広めてしまえば、ルソー的な言い方をすればそれは「一般意志」のような大きなうねりを持ってしまい、たとえ「見ず、聞かず、確認せず」でも「性暴力を働いた者=性犯罪者」と断じて構わないという認識、空気、雰囲気のようなものとして、この社会に蔓延することになるだろう。
第三者委は、フジテレビ内に「業務の延長線上で性的な接待につながる」ような文化、社内風土、雰囲気のようなものがあり、それが今回の事件についても「助長した」のだと言い切っている。だがそんな言い方で断罪をして、果たして第三者委は大丈夫なのだろうか。日本人の「同調気質」などは実に侮れないものであって、「社内」であろうと「車内」であろうと「社会」であろうとその中の雰囲気に流されて応じる、従う、売り飛ばすなんてことを簡単にやってのける能力を備えている。仮にさっきの動画のような痴漢冤罪事件をこの第三者委的に総括するとしたら、「弱い立場の女性の言い分の方が正しいのではないかと安易に決めつける、車内にそんな雰囲気が蔓延していた」とでも言わなきゃならないし、現実に多く発生している社会的な冤罪事件に対しても、「社会全体にそれを許す空気があった、警察・検察が逮捕・検挙したというだけで裁判も始まらぬうちから有罪の烙印を押し、即日解雇するなど社会的制裁をも加えて、全体として冤罪を生み出す流れを許容し、助長した」とでも言わなきゃならんだろう。
だが、そのような空気・雰囲気を醸成し得るものこそまさに、曖昧な情報をもって断定的な物言いをする、第三者委のような振る舞いでは無いのか。「見ず、聞かず、確認せず」のまま「性暴力」という言葉でひとくくりに語ることで、それを聞いた側が「あんなことやこんなことも、きっとさらにヒドイことまで・・・」と、勝手に想像を膨らませて断定的思考に陥るのを、明らかに助長しているではないか。
近年は何か不祥事があると当然の流れで第三者委が設置され、その調査報告によって世の中が動くといったことが本当に多くなった。しかし、このパターンは問題を孕む側面もある。よく知らない人々からすると、第三者委はまるで「人や組織を正しく裁いているかのように」見えてしまう。しかしこの認識はまったく正しくない。第三者委はあくまで主体となる組織(不祥事を孕む)からの依頼を受けて客観的視点で調査を行うものであり、その結論は依頼した組織にとってはもちろん大きな意味を持つが、それが社会的に正しい結論であるとか、法的に責任を取れる内容である保証などないのだ。
フジテレビの問題のように、中居のした行為が犯罪にあたるのではないか、刑事事件として立件すべきなのではないかといった疑いの残る事態に関しては、第三者委による調査や断定的な結論の導出はまったく馴染まないのではないかと俺は思う。冒頭にも書いたとおり、このような問題を正しく扱うためには「如何に真実に迫れるか」が最も重要なのであり、第三者委のように守秘義務を解くことすら出来ず、あくまで前後関係と状況証拠しか収集出来ぬ組織では、そもそも対処すること自体不可能なのだ。
俺はこの一件を総合的に見て判断するに、やはり被害者は今からでもいいから被害届けを出して仲居を刑事告訴するべきだと思う。性暴力の被害者にとって、どれだけ精神的に負う物が多かろうとも、やはり人や組織が裁かれる場は法廷でなければならず、問題の現場で発生した物理的事実を明確にして検証する必要がどうしても否めない、避けられないのだ。守秘義務に覆われた決定的事実を知り得ぬままに断定的な結論を出すなんていい加減なことは、絶対にしてはならないことだ。聞くところによれば被害女性の方は第三者委の聞き取りに対し、守秘義務を完全に解くことにも同意を示したそうだ。それならいっそのこと、もう一歩踏み込んで刑事訴訟に持ち込み、法廷で洗いざらいの真実を明らかにしてはどうか。
再び断っておくが、俺は中居を庇おうとか、性犯罪までは行ってないと思いたいなどの理由で書いてるわけでは無い。これも冒頭で書いたとおり、曖昧な情報をもって人を裁くような誤ったプロセスが、この社会に普通の感覚として受け入れられてしまうのを「この上なく危険な事態」と感じているだけだ。「性暴力」と聞けば即「=性犯罪」と断じるようなデタラメな感覚に、人々がすっかり慣れてしまうような未来をただただ恐怖をもって想像しているだけだ。つまり俺の懸念の主体は「この件」にあるのではなく、この件の顛末によって立派に教育されてしまった人々が造りだすであろう「曖昧でいい加減な社会」にある。
もう一つ、長くなるが、大事なことなので書いておく。
「第三者委」の名からすぐ浮かぶものとして、兵庫県の問題がある。あちらでも先日第三者委の調査結果が公表されたが、正直俺はその結論についても一点だけ大きな違和感を覚えた。
それは第三者委が「知事の行為は明確に公益通報者保護法違反である」と断じたことだ。
ふつうに考えてこれはおかしくないか。たとえ第三者委のメンバーが法曹経験者だとしても、法的に見てクロかシロかを明言することが可能なのは裁判のプロセスを経てのみだ。その点、百条委員会が「違反している可能性がある」と述べたのは極めて妥当なことだ。実際、これら二つの委員会はこの問題に対し「法的に見てどうか、違反しているのか、してないのか」という点に何とかフォーカスを当てようと試みた。その結果、百条委は適切な表現として「違反の可能性」を使ったが、第三者委はそれより遥かに踏み込んで「明確に違反」と断じた。しかし、あくまで法的な枠組みに沿う前提で見る限り、この第三者委の宣言に問題が無いとはとても言い難いだろう。
俺は兵庫県の問題では最初から「斎藤は法の趣旨に反している」と言ってきた。百条委にしても第三者委にしても、最初からこの表現を使えば良かったのにと思うのだ。法には必ず余白があるのだから、双方に付く弁護士は自身の仕事のために必ずその余白を互いに背反的に塗りつぶそうとする。それは決して悪い事ではなく、双方の言い分を聞いて判断するのはあくまで裁判所だけ、ということでしかないのだ。それに、調査委が法的にどうのこうの言う必要はそもそも無い。立法事実に基づいて「何故この法律が存在するのか?」に照らせば、自ずと「その趣旨に沿うようにすべきだ」ということだけは少なくとも言えるはずだからだ。
つまり、フジテレビにしろ兵庫県にしろ、第三者委に出来ること・言えることは非常に限定的なのであって、上記の例のようにどちらも必要以上に踏み込み過ぎてしまうと、今度は法的な意味でも妥当性を欠いてしまうリスクがあり、新たな人権侵害を生む危険性だってあるということになる。
俺はこうした社会の様相を見るたびに、もう、いちいち引っ掛かり、それはホントにそれでいいのか?いや、あり得ないだろう?などと頻繁に疑問を抱いている。ところが、世の中的には兵庫県にしろフジテレビの問題にしろ、第三者委が出した結論をまるで裁判結果であるかのように受け入れて、「それが真実だったのか!」「丁寧に調べたな!」「良くそこまで踏み込んで結論を出したな!」などと、むしろ最高に有り難がっている人々の姿の方が多く見受けられるのだ。俺に言わせれば、よくもそんなにまるっと飲み込めるものだなと思う。だけど、それは別に俺がひねくれている訳じゃないと思うぞ。ふつうに論理的に考えて、曖昧な情報をもとに断定的な結論を導いたり、法廷以外の場所で相反する見解をねじ伏せてまで法的解釈~結論を授けるなんてのは、実際おかしなことばかりなんだからな。なのに何故、多くの人々は何の疑問も持たずにすんなりと受け入れられるのだろうか。
昨日、「情報プラ法」なるものが施行されたばかりなのだが、人々の「受け入れ体質」がこれだけ保証されているのを見ると、政府自民党も前途洋々なのではないかと思う。ご都合主義政党バンザイだなw フジテレビにしても、この第三者委から貰った結論にはもろ手を挙げて喜んだことだろう。だって、週刊誌報道から続いた世論の予定調和に、ちょうどうまい具合に乗ることが出来たって訳だからな。逆にもし「フジの体質には、とりたてて問題は無かった。」なんて結論が出されたとしたら、むしろフジテレビはこれからどうにもやりようが無くなり、八方塞がりに陥ったはずだ。事実かどうかと、納得するかは違うところにある。カズレーザーの言からしても、従っておいた方が何かと上手く行くという概念がいろいろ強く働いていて、各々見極めながら動いているということなのかも知れない。そういう意味では、第三者委はいい仕事をしたということになるのだろう。
だが俺は、子供の頃から「釈迦のてのひら」に乗ることをひたすら嫌ってきたのだ。身の周りに居た、俗に「エラい」と呼ばれる人たちとはことごとく喧嘩してきたしw、納得出来ないことを飲み込まされるのがどうしても嫌で仕方がなかった。小学校6年の時に教えられた円錐の体積の出し方も、何故そうなるのか?と言って先生を困らせたんだ。そら困るはずだよw、小学生の知識では絶対に説明も理解も出来ないものだったのだから。でも、だったら教えるなと言いたいんだよ俺は。「これはこうなるんだから、言われたとおりに覚えておきなさい」とか言われるのが本当にアタマに来るんだよ!
陰謀論とか、誹謗中傷とか、冤罪とか、そういうものは皆一つ残らず、人々が与えられた情報をまんま丸飲みにすることによって引き起こされるものだ。どうせそんなことになるんだから、円錐の体積の出し方を丸飲みする経験なんてしないに越したこと無いだろうよ。そんなものに慣らされて、いったい何の得があるって言うのさ?