橋下氏は「まずパワハラ、おねだり問題を地上波はワッと取り上げて斎藤さんを責めたんですが、これは僕は地上波の方は問題だと思っています。パワハラ・おねだり問題というのは、斎藤さんが辞めるような問題ではなく、改めればいい問題」 

 

本当にそのとおりだと思う。まずもってパワハラもおねだりも、あの段階ではすべて「真偽不明」だった話だ。それをマスコミが公益通報者保護の観点と「いっしょくた」にして喧伝したのは混乱を招く引き金になった可能性があるし、百条委員会の調査を待たずに辞職決議した議会の方にも同様に責任はあるはず。

 

だがしかし、だ。そんな諸々の事象とは無関係に、斎藤がやった告発者探索・告発者潰しは決して許されることではない。それは明らかに権力者による権力の乱用だった。しかも、わざわざ告発者の人間性云々に言及してその品位を貶め、その見映えを悪くすることによって逆に自身を正当化しようと図っているのだから、権力者の振る舞いとしてはもってのほかである。

 

「問題なのは、告発者つぶし。斎藤さんが完全に今、誤っている、また兵庫県庁の幹部が間違ったのは、自分たちの疑惑を指摘した告発が出てきた時に、この告発を無効にするために、告発者が悪い人間だってことを言おうとした。悪い人間の告発だから告発は無効なんだと」 

 

現状明らかになってきた維新議員の行動を見るに、百条委員会で片山が故人のプライベート情報に触れようとした証言を遮られたという音声データも、それがあたかも隠された真相(つまり告発者の人間性に問題がある)であるとバラ撒くつもりで、「斎藤側」と「維新側」とで周到に仕組んだものだったようにも見える。その一点突破で犬猫野菜を手懐けられさえすれば、すべてが上手く収まるのだからな。

 

百条委の報告書が決議された今になって、斎藤自身の口からハッキリと「告発者のわいせつ文書」などという核心的侮蔑表現がポンポン出るようになったのも、その一連の流れの裏付けではないのか。

 

斎藤の言動に一貫しているのは、「自分に向けられた批判はすべて妥当でない」という主張だ。これは告発文書問題の初動からして顕著であり、何を言われたところで一切認めぬという決意のようでもある。この態度は、民主国家の権力者としては実に悲惨なものだと言える。

 

「だから斎藤さんが間違ったのは、ちゃんと告発として受け付けて事実を確認して悪いところがあったらそれで謝ればいい、であれば人が死ななかったと思う

 

告発者が悪い人間だということを言おうとして、告発の無効性を言おうとしている。これは自分の疑惑の告発つぶしとして非民主国家の権力者がやることですよ」

 

俺は昔から、維新にも橋下にもその思想には相当問題があると感じている。が、俺は橋下の人間性などについてグダグダ言うつもりは一切無い。あくまでその言動の中身について批判もすれば同意もする。是々非々なのである。そして、この告発者つぶしの件での橋下の主張には心底うなずけるし、いかにも正論だと思っている。

 

もちろん、人はそのバックボーン・境遇がそれぞれ全く異なるのだから、誰かの人間性といったモノについてどれだけ突っ込んで評価するかは完全に個人の自由である。人間性を評価出来ないから顔まで嫌いになるなんてことも、別に有ったって良いと思う。

 

ただ、俺は境遇によって人は言語すら通じなくなるものと確信さえしているから、誰かの人間性というもの自体が完全に流動的な概念であり、個人の好き嫌いに依存する「他愛のないもの」と識別している。つまり、それをもって社会正義のような普遍的な語りをしようというのは行き過ぎだと思っている。

 

たとえば昨年の都知事選では石丸のイキり具合が問題視され、その人間性にも疑問符が付けられたのだが、だからといって石丸を支持した有権者の考えは押しなべておかしいというのはあまりにも飛躍した見方である。もちろんその人間性を悪しと見るのは勝手だが、一方であのイキり具合に勇気づけられ、頼もしいとすら感じるような境遇だって人には有るということだ。

 

俺個人は少なくとも石丸を推すようなことは今後も無いと言えるが、その思いをこの社会での普遍的なものとして押し付けて支持者を断罪するようなことはしない。と言うか、出来るわけが無い。もちろん最近になって公職選挙法に抵触する疑惑も挙げられているから、そこは法に則って然るべき措置が取られるのは当然である。が、それを以て都知事選時点での有権者の行動をたしなめるのは後出しジャンケンだ。

 

さて、それでは兵庫県知事の椅子に返り咲いた斎藤はどうなのか。

 

斎藤の人間性を云々してみたところで何の意味も無いのは同じことだ。重要なのは、民主国家における権力者がどのように振る舞うべきかという普遍的な評価ポイントなのである。この点は、たとえ誰の人間性がどうであろうと一切揺るがない。民主主義社会にとっての、普遍的な「善し悪し」の基準なのだよ。

 

その基準に照らして斎藤の振る舞いがまったく成ってないとうのは、告発者つぶしが明らかになった最初の会見から既に解りきっていたことだ。決して斎藤の人間性云々の問題ではない。権力者が自身に向けられた疑惑に対し、その告発を自ら潰しにかかるという、その振る舞いにこそ問題がある

 

そのように振る舞う権力者の存在を許容すれば、民主主義社会を健全に維持する上で重大な危機となる。これは個人の好き嫌いの問題などではなく、この社会の住民としての、我々の生き死にに関わる普遍的な論点なのだ。そしてそれは、告発者の人間性がどうかなどという話に一切影響を受けるものではない。

 

俺は、パワハラやおねだりといった問題で斎藤を裁くべきではなかったというのも、問題の本質は自ら告発者つぶしを図った点にあるというのも、今回の橋下の主張については完全にその通りだと思っている。と同時に、この論理に違和感があるとか、納得出来ないとか言う者の感性がまったく理解出来ない。誰かの人間性なんてものに引きずられるのはそれぞれの勝手だが、なぜそれと引き換えに普遍的な論点を見失ってしまうのか。なぜそんな人間が多いのか。いったいこの有り様はなんなんだ? この国の教育の不備の問題なのか? 本当に理解できない。

 

少し前にブロ友さんが「リトマス試験紙」という話をしていた。なるほど、人々の染まる色こそ数多あれ、こと一つの「善し悪し」を語るにその価値観を試験紙を用いて酸性と塩基性、赤と青の2色どちらに染まるかで可視化出来るというのは面白い考えだ。この告発文書問題も、民主主義の存立条件をどう捉えるかという重大な要素について、明確にリトマス試験紙の役割を果たすのではないかと思う。

 

権力者がその立場を利用して告発者つぶしするのを善しとするのか。

 

人間性に問題のある者は、告発者となる資格を持たないのか。

 

公用PCに不倫文書を残した者の証言は、信用に足らないのか。

 

調査を待たずに辞職決議した議会の愚行は、遡って知事の権力乱用を帳消しにし得るのか。

 

 

俺のこの投稿も、おそらくリトマス試験紙として働くことになるのかも知れない。