取り立てて言うべきことも無いと思ってスルーして来たが、いまだにしつこく粘着するどころかこんな馬鹿げた行為に走る者が出て来るのなら静観ばかりしても居られまい。

 

 

成田さんは18日に「日本の大学教育を考える」と題した講演会に登壇する予定。だが、成田さんが3年前にインターネット番組「ABEMA Prime」で「もう唯一の解決策は、はっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなのしかないんじゃないか」「やっぱり人間って引き際が重要だと思う」「過去の功績を使って居座り続ける人が多すぎる」などと発言していたことから、一部の学生らが反発の声を上げている。 

 

俺はどちらかと言えば高齢者に近い立場なのでまったく他人事じゃ無いんだが、成田の言ってることは極めてまともだと思っている。問題領域は別に「高齢者」という括りだけではない。高度な社会システムの中で人間が順当に「死ねなく」なっていること、しかしだからと言って普通に「生きられなく」もなっていることは、ただ見過ごしていればいつか解決されるような話では無く、個々人の年齢とは無関係に全国民にとっての大いに切羽詰まった課題なのだ。

 

「集団自決というワードチョイスがまずい」という感想にはもちろん同意するが、その部分だけをもって文脈全体を否定する感情論は、見るべき対象を見れていないという意味でほとんど文盲とも言えるようなお粗末さである。既得権を振りかざして新鮮な血液の循環を阻害する動きが長らくこの国を支配するシステムに組み込まれ続けて来たのは明らかであり、それを変えられたくない意識を「保守思想」などという立派なオブラートに包んで映えさせようとする連中こそが、こうした感情論を煽って議論の本質をぼやかそうとしているのも明白だ。

 

重要なのは成田の言を批判して封じることではなく、それがダメだと言うなら「じゃあどうしたら良いか」を提示することだろう。にもかかわらず、「言っちゃいかんことはいつまでも言うな」で済ませるような悠長な状況では無いと解らぬような低能なら、発言するだけ無意味なんだから黙って外から見ていれば良いだけの話だ。なのに、

 

学生有志でつくる「No成田in東大」のX(旧ツイッター)アカウントが「会場内を成田氏の招聘に反対する人で埋め尽くし、講演に対して無反応を貫くことで反対の意を示しましょう!」「会場外でスタンディングを行うことで反対の意を示しましょう」などと呼びかけ。

 

この連中は本当に、あの天下の東京大学の学生なのだろうか?「招聘に反対」「講演に対して無反応」「会場外でスタンディング」を実践したところで、いったいどんな問題が解決するというのだろうか?成田の発言に対して反駁だとか思いがあるのなら、それを言葉にして論じれば良いだけではないか。少子高齢、労働人口といった問題の切り口に対して、自らの主張をねじ込む熱量を発揮すれば良いだけではないか。

 

それを、まるで成田に対するヘイトでしか無いような行動で自ら纏まろうとするなど言語道断、およそ学生が先導するデモとしては史上最低の行為であり、そもそもこんなものはデモでもなんでも無く「トンデモ」だと言ってやった方がいい。こんなくだらないことをする暇があったらアメリカの学生に倣って大々的に反戦デモにでも染まったらどうなんだ。ウクライナ、ガザの現状を見れば、黙って何もしようとしないこの国の態度はそれこそ集団自決のワードどころではない無類の愚かさだと何故思わないのか。

 

民主主義国家においてデモというものは本来、言論で戦おうにも恣意的にお膳立てされた城壁が巨大すぎて相手にならないケースにのみ適用されるものだろう。たった一人で乗り込んで来る学校の先輩相手に、まともに言論で勝負も出来ないヘタレどもがトンデモな徒党を組んでいったいどうするというのだ。

 

まったく、どこの誰に乗せられたんだか知らんが、考えてるようで何も考えてない連中の本末転倒な行動を見せられるこっちはますます将来が思いやられて、あきれ返るにも程があるってもんだよ。